全ての始まりは、セブンスヘブンのキッチンで起こった「ちいさな」事故だった。
ある日の午後、一人出かけた買い出し。
いつもより安い野菜、いつもより新鮮なお魚、いつもより色のいいお肉。まるで頭を殴られたような衝撃が私を襲ったのは、そんないつもよりいいこと尽くしの買い物から帰ってきたときだった。
「…ん?」
ただいまと機嫌良く裏口から家に入る。その瞬間までは私も機嫌がよかった。何も悪いことなんてなかった。
だけどその一秒後、私に届いたのは……明らかに何かが焦げている異臭。そして続く爆発音、さらにデンゼルとマリンの叫び声。
明らかによくないことが起こっていると、私は買ってきた食材をそのあたりに置き捨てて、二人の名前を呼びながらキッチンへと走った。
「デンゼル! マリン! だいじょ………………え?」
角を曲がってキッチンを視界に入れたときに感じた衝撃を、私は忘れることがないだろう。
もくもくと、一体何から出ているのかわからない不思議な色の煙が立ち込めるお店の中。おそるおそるコンロを見れば、なぜか変形しているフライパンの上に、元々何だったのか見当もつかない真っ黒なものが山積みになっている。
そんなキッチンを遠目から見つめるのは、デンゼルとマリンと……二人を両脇に抱え少し離れた場所で固まる、クラウド。
「………ティ、ティファ」
硬直する私に気づいた、硬直しているクラウド。その声にはっと我に返った子どもたちが、彼に抱えられながらぎこちなく笑ってくれた。
「お、おかえりなさいティファ……」
「お…おかえり〜……」
三人にあたたかく……迎えられながらとりあえずただいまの返事をした。それから勇気を出してキッチンの中を改めて見渡してみる。天井。どうやってつけたのか聞きたくなる場所にまで飛んでいる料理の一部と思わしきもの。壁。なにかが飛び散りぶつかってへこんだと見られる無数の跡。床。もう一歩キッチンの中に足を踏み入れたら転んでしまいそうなぐらい、一面ぬるぬるとコーティングしている何か。
「……ふう…」
「…ティファ……?」
上を向き、大きくため息をつく。
お店の中を一通り観察し、私は大方のことを把握した。
そう、答えはただひとつ。
「……みんな、上手に料理できたね…」
その一言で、三人の顔がさーっと青ざめていく。
私はそれを見届けてから考えることをやめ、目を閉じ体の力を抜いた。そして私の名を慌てて叫ぶクラウドの声を聞き届けてから、現実から逃げるように意識をその場に手放した。
「がーっははははは!」
「もう、笑い事じゃないよバレット」
バレットの大きな笑い声が閉店状態のお店の中に響き渡ったのは、それから数日後のこと。
最初バレットは、久しぶりに帰ってきたお店がこんな状態だったから大慌てだったけれど、事情を説明するとそれはそれは楽しそうに笑ってくれた。相変わらずの楽観具合に、私も思わず笑みをこぼしてしまう。
こんなものしか出せないけれどと、なんとか無事だったお酒をカウンターに座るバレットに出す。普段バレットが好んで飲んでいるコレル酒じゃないけれど、彼は文句も言わずにおいしそうに飲んでくれた。
「あー…酒がうめえ! …でもよ、よかったじゃねえか。誰も怪我ひとつなかったんだろ?」
「うん、それは本当によかった。クラウドが爆発しそうなのに気づいて、子どもたち守ってくれたの」
あのあと……意識を取り戻してから三人に事情聴取したところ、予想通り事件の発端は料理実験だった。
私が買い出しに出かけている間に仕事から帰ってきていたらしいクラウド。
それはまったく問題ないんだけど、彼が持ち帰ったのは出会った商人にただで譲り受けたという得体の知れない山菜の山だったらしい。赤かったり青かったり光っていたり見たことないきのこだったり。さすがのクラウドも体に悪いものだと判断して、ひっそり捨てようとしたらしいんだけど……それを運悪く見つけてしまったのが子どもたち。「焼くだけ」「煮るだけ」「食べないから」という好奇心旺盛な子どもたちのきらきらした目に負けたと、あとで彼は声を落として話してくれた。
(クラウドらしいといえば……クラウドらしいかな)
「で、ティファ。どうすんだ店は」
一通り笑い終えたバレットが私に話を振る。私は癖で立っているキッチンから、クラウドと一緒に立てた今後の計画のことをバレットに話す。
「…一ヶ月ぐらい、お休みすることにしました」
「一ヶ月だあ? えらく長ぇじゃねえか」
「うん……いろいろ修理しなくちゃいけないところがあって、全部終わるのにそれぐらいかかりそうで……。ほら、キッチンだけじゃなくて壁も床も天井も、ちょっとずつ直さなくちゃいけないとこがあるから」
「えらい損害だな……あんときみたいによ、オレらで作り直すか?」
「それも考えたんだけどね。エッジが出来立ての頃と比べて、手伝ってくれる時間のある人も少ないだろうし……工事の予約もいっぱいなの。ほら、エッジってずうーっと建設ラッシュみたいなものでしょう」
「まあ、確かにそうだな」
「それで、もうせっかくだから思い切ってお店休んじゃおうかなって」
バレットには、できるだけ明るく努めて話す。
というのも、この避けられない休業期間を縮めるためクラウドがかなり奔走してくれたのをよく知っているから。本来は修理にもっと時間がかかりそうだったんだけど、クラウドは彼が自分で築いていた人脈を使って、とても理想的な工事のスケジュールを組んでくれた。そうやって全力を尽くして頑張ってくれて掴んだ一ヶ月だから、遅いとか長いとか、何も言うつもりは起きなくて。
(クラウドも……悪気があったわけじゃないし)
ごめんな、と何度も私に謝っていたクラウドのことを思い出しながら、一人微笑む。
まったく予想していなかったタイミングで急に決まった休業。もしかすると初めてのいわゆる「長期休暇」。休んでいいと言われて最初は正直嬉しいなあとも思っていたんだけれど……仕事とキッチンを失った私は、しばらくしてからある大きな問題に気づいてしまった。
「それでね……バレット」
「? おう」
「私、気づいちゃったんだけど」
「……」
「……すごく暇なの」
バレットが声を出して笑う。私もそれに合わせて笑みをこぼす。
そう。工事の手続きや仕入れ先への連絡を全て終えて一息ついたあとに私を襲ったのは……やることが何もないという状況だった。
もちろん毎日こなさなければいけない仕事、つまり家事は残っている。最初はクラウドと一緒に落ち込んでいた子どもたちも、今は変わらず元気に走り回っているから、おうちのことが忙しいと言えば忙しい。だけどそんな家事の中、些細な楽しみだった料理ができなくなってしまったこともあり……部屋のベッドに倒れ込み、のんびりしながら気づいてしまった。私からお店の営業を取り上げてしまったら、何も残らないのかもしれないということに。
「がははは、ティファから暇っつー言葉が出るとはなあ」
バレットは、情けない顔をしている私に向かって大きな口を開けて笑って見せた。
「……ありがたいことに今まで暇なときってなかったから、どう過ごしたらいいかわからなくて」
「そういうときはよ、飲むのが一番だぞ」
「んー、その役目はバレットに譲ろうかなあ」
「…あいつは相手してくれねえのか? クラウドさんはよ」
「…だめなの。クラウド、私と遊んでる場合じゃなくって」
「どういうことだ?」
きっとバレットが言うだろうと思った、クラウドと休暇を楽しめばいいという優しい提案。
恥ずかしいけれど私も最初は都合よく、そんなことを考えていた。お店の定休日以外にクラウドとゆっくりすごせる時間があまりなかったこともあって、二人で仕事を休んでどこかにお出かけするのもいいかなと期待を膨らませていた。
だけど……現実はそう甘くなくて。
「えっとー……楽しくない話なんだけど」
あまり大きな声で言えたことではないから、私はつい俯きながら話を続ける。
「? おう」
「実は…。今回の工事費が、結構かかっちゃいそうで…」
「おー……そうきたか」
「…うん。工事がなかったら問題なかったんだけど、ダメージが大きい上に一ヶ月お店開けないとなると、お財布がちょっとピンチで……クラウドまでお仕事休んでもらうのは難しそうなの」
「おお……」
渋い顔で何度も頷くバレットに、仕方のないんだと苦笑いする。
実は……行きたい場所があったら連れて行くと最初に言ってくれたのはクラウドだった。仕事も数日ぐらいなら休めると。その言葉に心を踊らせたのも束の間、冷静になっていろんな見積もりをしていくうちに、現実は私たちの邪魔をした。計算をすればするほど目の前の事実が、お財布事情が立ち塞がる。いわゆる家計が……あまりよろしくない状況なのは素人から見ても明らかだった。そんな中しばらく一家の大黒柱になることが決まっているクラウドに、仕事を休んで欲しいなんていうお願いはできそうになくて。
「でもよお、もったいねえなあティファ」
お酒を豪快に喉に流し込んでからバレットが呟く。
「せっかく休みだってのに、変わらずお前は家ん中かよ」
その言葉に、私は思わずぴくりと反応する。
そう。バレットの言う通り……私はつい、もったいないと思ってしまっていた。そして何より情けないと思っていた。クラウドがいないと外出することもできない自分のことを。料理ができなかったらできることが一気になくなってしまった自分のことを。
優しいみんなは口を揃えて言う。「いつも頑張ってるから何もできなくたっていい」と。クラウドは次いで真剣に言う。「何もできなくたって、ここにいてくれるだけでいい」と。
その気持ちは嬉しい。そう思ってもらえることほど幸せなことはないとも思う。
だけど……だけど、心の底の私は首を傾げていた。本当にこれでいいのかと。一人じゃ何もできない私のままでいいのかと。
(……)
「……それでね、バレット」
ちいさな沈黙を破る。
そしてこっそり一人で考えていたことを、小声でバレットに打ち明けた。
「お?」
「ちょっと色々考えてみたんだけど……今から言うこと、独り言だと思って聞き流してくれる?」
「おう、とりあえずな」
「その……私ね。……一人でミディールに行きたくって」
「ミディールう?」
予想していた反応をするバレットに、私は小さく頷いた。
「なんでまたあんなとこに」
「バレット覚えてる? クラウドが行方不明になったとき、看病してくれたお医者さん達のこと」
「おお、あんときの……。世話になったな。ティファは特にそうか」
「そう。クラウドが戻ってきてからすぐバタバタしちゃったでしょ。あれからちゃんと、お礼も言えてないんだ。なかなか会いに行く時間もとれなくて……。それで、今がチャンスなんじゃないかって思ったの」
ミディール。ここから南に海を越えた先にある小さな島、小さな村。旅をすることがなかったら……いや「あんなこと」がなかったら行くことも知ることもなかった場所。だけどあの場所がなければ、あの人たちがいなければ今、私は、私たちはここにいない。もっと言うと、この星自体無事じゃなかったかもしれない。
いつかお礼を言いに行きたいと思っていた。だけど慌ただしい日々の中、「いつか」はなかなか訪れなくて。
それでベッドの上、一人、クラウドの帰りを待ちながらごろごろと転がっていたとき、私は思いついてしまった。今行けばいいんじゃないかと。クラウドにばかり頼ってないで、この際一人で行ってみるのもいいんじゃないかと。
(……なーんて、ね)
想像するのは簡単。期待するのも簡単。だけど私がよくても家族はどうだろう。一人で街の外に出かけたりなんかしたら家の中が大変なことになるのは目に見えているし、みんなに迷惑をかけるのは想像に容易い。いくら私にその気があったって、なかなか実行できないことはわかっていた。だからつい、バレットに独り言として話してしまったわけだけど。
(こんなわがまま、言ってもしょうがないよね)
「…なんちゃって! 変なこと言ってごめんね。暇すぎていろいろ考えちゃったの」
黙って私の顔を見ているバレットを誤魔化すように、慌てて自分で言葉を締める。
だけどそうやって強制終了しようとする私に、バレットは真剣な眼差しのまま話を続けた。
「…行けばいいじゃねえか」
「……え?」
茶化すことなくそう言い切るバレット。思わず変な声で返答してしまう私。
「なーんにも変なことなんて言ってねえぞ、ティファ」
「……」
「家のこと気にしてんのか? じゃあ大丈夫だ、偶然にもオレが帰ってきてるわけだからな! 一通りの家事ぐらいお手のもんよ」
「え……でもほら、ご飯とかのこともあるし……子どもたちにも悪いでしょ?」
「どのみち、キッチンがこの有様じゃあティファがいたって飯は作れねえだろ? 外で食うか頼むしかねえよ。それとマリンたちのことなら安心しろ。オレの子育て歴はてめーらより長い」
「それはそうだけど……」
確かにそれは難しいなあ、とか何とかで返してくれると思っていたバレットの、予想外の肯定的な反応に思わずどぎまぎする。賛成される準備がまったくできていなかったから私の言い訳はチグハグで、バレットの心には刺さりそうにない。
さっそく言葉に詰まってしまった私に、バレットは明るくも真面目な表情で話し続けた。
「ティファさんよ、オレは応援するぜ。いい提案じゃねえか! なあ」
「だけど……すごく迷惑でしょ? みんなにとって」
「オレたち家族がこれまでティファにかけてきた迷惑と比べたら、こんなのかわいいもんだろ」
「そんなことないけど…」
「いいじゃねえか。ミディールだけと言わず、ついでに好きなとこ行ってこいよ」
「ええ?」
「思えばお前、ずーっとオレや子どもたち……誰よりクラウドと一緒だっただろ。たまにはよ、一人でのんびりしてくるのも悪くねえんじゃねえか?」
次々とバレットのくれる優しさからこぼれ落ちる……つい、わくわくしてしまうような話。想像したら本当に行きたくなっちゃいそうだから我慢していたことが、私の中に続々溢れ出る。行ってみたいと思ってしまう。外に飛び出してみたいと考えてしまう。自分一人でどこまでできるのか、試してみたいと思ってしまう。
(……)
「……。バレット、私……」
応援すると言ってくれているバレットに、自分の今の心のうちを明かそうと思った、そのとき。
「……あ」
「…え?」
バレットがふと、何かに気づいたように声を漏らす。その視線は私を飛び越えその先、二階へ続く階段の方に向けられている。そこまで気づいて私は察した。バレットが何を見つけたのか。……誰と目が合ったのか。
「……クラウド」
おそるおそる振り返った先にいたのは、夜中の配達のためこれから仕事にでかけようとしているクラウドだった。
出発まで二階で仮眠をとると言っていたからまだ寝ていると思っていたけれど、バレットとの話が弾むうちにあっという間に時間が経っていたらしい。クラウドは眠そうな表情で、不思議そうに私たちを見ていた。
「……? どうした」
クラウドが首を傾げながらごもっともなことを聞く。私は助けを求めるようについ、バレットに目を向ける。
だけどバレットは何も言わずにただ、笑顔で何度も私に向かって頷くだけだった。
……きっと、私次第だと言いたいんだろう。クラウドにさっきまで話をしていたことを伝えるのか、伝えないのか。
(……)
「……ティファ?」
「……クラウド」
「…何かあったのか?」
「えっと……その。ちょっとクラウドにお願いがあって……」
「お願い? ……何だ。できることならなんでも聞く」
そう申し出てくれるクラウドの相変わらずの優しさに心を痛めつつ、私は深呼吸する。
クラウドに旅のことを言ってみるのか、言わずに終わるのか。その答えは既に、私の中で出ているような気がした。
(……よし)
「……あのね、クラウド」
「ああ」
「……私、ちょっとしてみたいことがあって」
「してみたいこと?」
「うん。……一人でエッジの外にお出かけ、したいの」
緊張しながら恐る恐る、だけどちゃんとクラウドの目を見て話す。こういうときは誤魔化しちゃだめだと思ったから。
クラウドは私が何を言っているのかがわからなかったようで、しばらく呆然としていたけれど……やがて状況を理解してくれたのか、目をぱちくりとさせた。
「…………一人で?」
「…はい」
「…エッジの外に?」
「そう」
「……ティファ一人で?」
「う、うん」
「む……」
「…む?」
「無茶だ。危なすぎる」
「へ、平気だよ。ほら、戦いに行くわけじゃないし……」
「そういうことを言ってるんじゃない。危険なのはモンスターだけじゃないんだ。何かあったらどうする」
(う……)
想像通りのクラウドの反応。聞く前からわかってはいた。クラウドが私の一人旅に賛成するわけがないということは。私がちょっと一人で出かけるだけで心配してくれる彼が、仕事が長引いて久しぶりの帰宅になったときとても喜んでくれる彼が、元気よく躊躇なく「一人で行ってこい」なんて言うはずがない。
心配してくれているんだっていうことはわかる。クラウドがいつだって守ろうとしてくれているのもわかる。クラウドの言う通り、外は呑気に歩き回れるような世界ではまだない。
(…だけど)
そんなことを理由に諦めるのは、なんだか少し……悔しい。
(……)
「…大丈夫」
「ティファ」
「…私、大丈夫だから。自分のことぐらい自分で守れるから」
「……、」
「クラウド。……私、やってみたいの。行ってみたいの。ちょっとだけ自分を試してみたいの」
「…ティファ」
クラウドの目をじっと見つめる。思っていたことをぶつけたときみたいに、つい気持ちが熱くなってしまう。
同じように私を見つめ返すクラウドはすごく寂しそうな顔をしていた。思わず「なんてね」と言いたくなってしまう表情に心は揺さぶられるけれど、ここで気持ちを折ってしまうといつもと同じだから、踏みとどまる。
「……聞いてやってもいいんじゃねえか? クラウドさんよ」
そうやって二人、見つめ合いながら固まってしまったとき、声をかけてくれたバレット。
私たちの視線がバレットに移る。バレットはお酒をぐぐっと飲み干してから、真剣な表情でクラウドに向き直った。
「オレはよ、前々から思ってたんだ……オレたちはティファに家のこと任せすぎじゃねえかって」
「…バレット」
一緒に説得しようとしてくれているんだと思いつつ、思ってもいなかった言葉につい胸が詰まる。クラウドは一瞬顔をしかめたけれど、何かを言い返すことなく真っ直ぐにバレットを見つめ続けていた。
「そう思わねえか? クラウド」
「………」
「オレとおめえは、仕事っつー理由で世界中飛び回ってるが……ティファはどうだ。オレたちとマリンたちのために、ずーっとここ、守ってくれてるだろ。そのせいでなかなか家から出られやしねえ」
「……」
「何も家出したいって言ってるわけじゃねえんだ。これぐらいのわがまま聞いてやらねえか」
(……)
バレットの言葉に思わず俯く。家族のために自分の時間を使っているというような犠牲的な意識はないけれど、そんな風に思ってくれている優しさを感じてしまったから。
少し俯き何かを考えていたクラウド。しばらくしてから私を見たその目は少し震えているように見えたけれど、変に逸らすことなくじっとこちらを見つめてくれた。
「……。ティファ」
「…?」
「…ティファが、行きたいって思ってるんだよな」
そう尋ねるクラウドは、私の何かを確かめようとしているように見えた。
怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなさそうなその目を、できるかぎり精一杯見つめ返す。そしておそるおそる、だけど嘘は言わないように、心に正直になりながらクラウドに返事をした。
「……うん」
私の返事を受け止めたクラウドが、また寂しそうな顔になる。その表情に胸が痛むのを感じるけれど……クラウドがくれた返事は、私が思っているよりもずっと彼らしい、優しいものだった。
「……なら、俺にティファを止める権利はない」
(え……)
すんなり貰えると思っていなかった答えに、返す言葉も見つからないまま瞬きだけを繰り返す。どうやらバレットも同じことを思ったらしく、怪訝な顔をしながらクラウドの様子を伺っていた。
「…いいの? クラウド」
「……ティファがそんなに言うなら」
「…ありがとう」
「………なんだ。えらく聞き分けがいいじゃねえか」
「…あんたはどっちの味方だ」
「そりゃあオレは、いつだってティファの味方よ。でもよお前、何がなんでも反対してくるもんだと思ってたぜ」
「いつも聞き分けがないみたいな言い方だな……」
「……聞き分けねえからなあ、ティファに関しては」
「……」
「…さすがに負い目感じてんのか?」
「……。あんたは相変わらず本当によく喋る」
乱暴に言葉を返しながら、クラウドはため息をつく。彼には否定しないことでイエスと答える癖があることを、私もバレットもよく知っている。
「よかったじゃねえか、ティファ」
「う、うん! ……なんかまだ実感ないけど」
「がははは、ゆっくり考えろ。子どもたちにも言わねえと。これからしばらくは……とーちゃんが、かーちゃんの代わりだと、な……」
「…ぞっとする」
「…おめー今日、口悪くねえかいつもより」
「気のせいだ」
また言い合いをはじめるクラウドとバレットに少し安心しつつ、私は自分の手元を見つめ、こっそり小さく微笑んだ。不安なこともたくさんあるけれど……急にやってきた新しい時間に、胸の高鳴りを覚えずにはいられなかった。
それから、私の一人旅の準備はたんたんと進められた。
子どもたちには、私が数日家を出ることを話したとき残念そうな顔をさせてしまったけれど、バレットが理由を話すと笑顔で肯定してくれた。マリンは簡単な料理なら自分がやると言ってくれたし、デンゼルは得意の掃除をやると照れくさそうに教えてくれた。
私はと言えば、自室にこもって「一人でやってみたいことリストを作る」という、これまで考えたこともないことに頭を使った。自分で決めた、なんとなく使える時間は二週間。そう簡単にやりたいことが思い浮かぶことはないだろうと思っていたけれど、ささやかな夢たちは思っていたより簡単に言葉になって筆先に現れた。小さなことから大きなことまで……私はちゃんと、やりたいことを頭の中に隠し持っていたみたいだった。
そんなこんなで、あっという間に時間は過ぎ……いよいよ出発の前日となった日の夜。
「……ティファ」
寂しがる子どもたちをなんとか寝かしつけたあと……部屋に戻ろうとしていた私に声をかけたのは、自室からひょっこり顔を出すクラウドだった。
首をかしげることで返事をすると、彼は小さく私に手招きをする。
「…こっち」
(…?)
素直にクラウドの部屋の中に入る。彼は私が部屋に入ってきたのを確認してから、机の上に用意してくれていたあるものを手渡した。
「…これ」
「あ…」
「使ったらいい」
クラウドが手渡してくれたのは、私たちが旅の間使っていた世界地図。
みんなでよく頭を突き合わせて確認しあった、大きな地図。両手に持って広げ、懐かしさに思わず笑みをこぼすと、クラウドも同じように微笑んでくれた。
「懐かしい。ちゃんと残してあったんだ」
「デリバリーを始めた最初の頃は使ってた」
「最近はもう使ってないの?」
「ん……さすがにもう、頭の中に地図が入ってる。だから持っていっていいよ」
「ありがとう、クラウド」
お礼を言えば、彼はただ優しい表情で頷く。
(……)
クラウドはあれから一度も、自分から私の一人旅の話をしようとしなかった。
マリンとデンゼルに旅の計画を聞いてもらっているときも、バレットに家事をどう分担してもらったらいいか相談していたときも、クラウドはたいてい黙っているか、時々首を振ったり頷いたりするだけだった。旅の許可をくれたときも不思議に思っていたけれど……彼はこの件に関して、口出しするのを控えているように見える。
「ティファ」
名前を呼ばれ、顔をあげる。クラウドは私が彼を見たのを確認してから、部屋の片隅に置かれている大きな箱を引っ張り出してきた。
見覚えのあるその箱。中身を知っている私は、つい思い出したような声を漏らす。
「あ。…マテリア」
「……まさか、持っていかないつもりじゃなかっただろうな」
「えへへ……」
「ティファ。外はまだモンスターだらけだ。…最低限持っていって欲しい」
「うん、ありがとう。そうします」
モンスターがいることを忘れていたわけでは決してなかったけれど、無自覚に少し浮かれてしまっていたのかマテリアの必要性はすっかり頭から抜けてしまっていた。
そんな私を困ったように見てクラウドが箱の中身を漁る。どうやら選抜してくれるらしい。
「…まず、かいふく、だろ」
「うん」
「ちりょう、もだ」
「そうだね。確かに」
「そせいは……」
「一人だから、持ってても仕方ないかな」
「……。じゃあせめて、バリアとじかん。ぜんたいかと……れいき、ほのう、いかずち、かぜ、あと、どく」
「どく?」
「…バイオしか効かない敵が出たらどうする」
「そんな敵いたっけ…?」
「あとは……HPアップとMPアップと…」
「ふふ、もういっぱいだよクラウド」
最低限という言葉はどこにいったのか。クラウドは私の両腕でつくった輪っかの中に次々とマテリアを入れていく。さすがにこれ全部を装備するのは難しいと笑えば、彼は笑い返すことはなくただ俯き、小さく呟いた。
「……心配だから」
「……」
「…。……ティファに何かあっても、今回はすぐに駆けつけられないかもしれない」
「……クラウド」
「だから……せめて、今できる限りのことはしておきたい」
俯きながらぽつぽつと話すクラウド。心配してくれているのは十分伝わっていたけれど、改めて面と向かって言われると切なさを感じてしまう。
「………ねえ、クラウド」
「…?」
「……やっぱり…」
「……」
「…ううん、ごめん。なんでもない」
(……やっぱり、行かないほうがいい? なんて…)
一瞬脳裏をよぎる質問。だけど、声になりかけたところで言葉を止める。そんなこと聞いてどうするの。クラウドが「行かないで」って言ったら、行くのを止めるつもりなの? 頭の中の冷静な私が、感情的になっている私を叱咤する。
今はまだ、甘えていいときではないような気がした。自分でやると言い出したことだから、自分で責任を持っていたかった。
「…クラウド、ありがとう」
何も言える言葉がなくてそれだけ精一杯伝えると、クラウドは寂しそうに微笑む。
その表情の中に寂しい以外の感情がある気がしたけれど、クラウドは何も言わなかった。
「いってくるね」
次の日。真っ青な朝の空の下、ひとり家の外へ一歩を踏み出す。
深く息をついてその一歩を噛み締めてから振り返ると、家族みんなが私を見守ってくれていた。
「ティファ、気をつけてね」
マリンが少し寂しそうな顔をしながら言う。隣でデンゼルが難しい顔をしている。かがんで頭を撫でてあげたら、二人はそのままぎゅうと抱きしめてくれる。旅の支度をしている間、ひょっとすると一番応援してくれていたかもしれない優しい子どもたち。私と目を合わせるなり、頷いてくれた。
「ティファ」
二人から離れ、立ち上がったときクラウドに名前を呼ばれる。そっと彼の方に向き直ると、クラウドは私を何の前触れもなく抱きしめた。
「ク、クラウド…!」
「……」
普段人前でスキンシップを積極的に取らない私たちだからつい慌てる。みんなが見てるよと、顔が熱くなるのを感じながらクラウドに伝えたけれど、どうやら離すつもりはなさそう。そんなクラウドの肩越しに、バレットたち三人が騒いでいるのを見て更に照れながらも……私は彼の背中に腕を回して、その肩に頭を預けた。
(今ぐらいは……いっか)
「…ティファ」
「…うん、クラウド」
「……気をつけてな」
「ん…」
「…。……何かあったらいつでも呼んでくれ」
「うん。ありがと」
「それと……いつ戻ってきてもいいから。……明日でも今晩でもいい」
「ふふ……もうちょっと頑張ろうかなあ」
クラウドにとってはきっと冗談ではない言葉を、冗談として受け止める。クラウドは私にわがままを伝える代わりに、耳元で長いため息をついた。
「……ティファ」
「ん…?」
「………見送るのは、こんなに辛いんだな」
「ふふ、大袈裟だよ」
「…大袈裟にもなる」
いくら冗談で返しても元気にならなそうなクラウドの様子を見ようと、少し体を離す。
目が合うと、クラウドはじっと私の目を見たあと、身をかがめて私の唇にキスを落とした。
(…!)
家族みんなの前でキスをすることなんてないから、思わず体に血が登るのを感じる。マリンがきゃーと小さく黄色い悲鳴をあげたのが聞こえた。だけど拒否する理由は……自分の頭のどこを探しても見つからないから、私はそのまま身を委ねる。
しばらくしてから唇をそっと離したクラウドは、相変わらず悲しそうな顔をしていたけれど……何かを言うこともなく、そのまま私の体も解放した。
(……あ)
フラッシュバックする、あのときのこと。一人コルネオの館に行こうとしていた私を、名残惜しく見送ったときのクラウドの表情。
あのときもクラウドは、私の考えを尊重してくれた。あのときだけじゃない。いつだって彼は、私の言葉に耳を傾けてくれた。
(………)
寂しいという感情を強く感じてしまう前に、私は家族から一歩二歩と離れる。名残惜しくないといえば嘘になる。正直ちょっぴり寂しくて、引き返したいと思ってしまっている。自分の足で家族の元を離れるなんてはじめてのことだから、どうしたって不安の方が強くなる。いろんなことを考える。
それでも、きっともうないこの機会を、やってみたいという気持ちを大事にしないといけないような気がした。大事にしたいと思った。自分を試してみたかった。
「…それじゃあ、いってきます」
できるだけ元気よくみんなに伝える。みんなも元気にいってらっしゃいと返してくれる。最後まで私を引き止めることはなかったクラウドも、微笑んでくれている。
そんな家族に背中を向けて、私は一歩を踏み出した。こころの色はまだ、何にも染まっていなかった。