物心ついた頃から、あの人がそばにいないとき、星空を見上げる癖がついていた。同じ空の下繋がっているとでも思いたいのか、穏やかな星空を見ているだけで心が落ち着くからなのか……あるいはあの思い出が私をそうさせるのか。癖がついてしまった理由はわからない。けれどこんな夜はいつも、自室である寝室に窓があってよかったと思う。
もともとは別の人間なのに、いっしょにいないと落ち着かないのはどうしてだろう。気づけば長い長い間、私の人生の真ん中で生きている誰よりも愛おしい人。
ずっとずっと手を離さないでいてくれたおかげで、今日私はここにいる。そして「生きていてよかった」と思える人生を、あの人は今日も私に届けてくれている。ときにすぐそばで、ときに少し離れたところから、そしてときに長く会えない時間の中でも。
「……」
時間をかけて飲めるようにと、数十分前に自分でつくったホットミルクを飲みながら、今夜私は夜空を見上げる。
子どもたちが寝静まってからもう二時間は経っているだろうか。普段なら私もベッドに入り、夢の中に入るか入らないかでうつらうつらとする時刻。
私は今、待っている。待たないでいいよと言ってくれた人をルールを破って待っている。
今朝の彼の言い方だと、きっと家路につくのも日付が変わってからになるだろう。日が変わるか変わらないかくらいの帰宅なら、最近は「寝てろ」と言わなくなったから。
手持ち無沙汰になっている左手で、この間切ったときよりも少し伸びた黒髪をいじる。楽しみだね。嬉しいね。しっぽを振って彼の帰還を心待ちにする心臓から、眠気を帯びる気配を全く感じないまま。
(……)
いっしょに夜更かしをしたいと思えること。いっしょに酔っ払いたいなんて言えること。子どもみたいにいっしょにお風呂に入ること。弱い部分をいっしょに共有できること。ようやく実感できるようになった、同じわがままを分け合えるありがたさ。
自分と違う人と一緒に生きることは難しい。少しバランスを崩すだけでがたがたと揺れてしまう。呼吸を整えるのに時間はかかるし、それが二人分だから尚更。それでもほったらかしにせず直したいと思う。諦めず相手の息に合わせたいと思う。苦しいときも嬉しいときも、その気持ちは変わらない。
そんなふうに思える人を、自分の意思で待っていられる今を……私はようやく幸せだと思えるようになっていた。
「……」
ホットミルクを一口飲む。もうすでにぬるくなり始めているのは、今夜がほんの少し冷えるからだろうか。
どんな天候でも気候でも変わらずバイクで走るあの人を想う。雨に打たれてずぶ濡れになっても砂塵で服の中まで砂だらけになっても、文句も愚痴も言わない不思議な人。どんな状態で帰ってきても「おかえり」と一言声をかければほっとした表情を見せてくれる。それがまるで近所の公園かどこかで遊んで満足して帰ってきた子どものようで、私はいつも彼に申し訳なくも愛しさを感じてしまう。
そしてそれは夜でも朝でもいっしょ。今夜のように夜更かしをしても早起きをしても、どんな時間に出迎えても結局は嬉しそうな笑顔を見せてくれる。だから、こうして彼の言いつけを破って待ちながら思う。もしかするとあの笑顔が見たいのかもしれないと。大切な人が我が家に帰ってきて安心してくれる……噛み締めても噛み締めても、噛み締めきれない幸福に、出会いたいのかもしれない。
同じ故郷で生まれた人。知らないところで守ってくれていた人。生きる希望のきっかけをくれた人。
今でも私を守ってくれる人。背中を預けてくれる人。頼らせてくれる人。残りの時間を全部、捧げたっていいと思えた人。
(……ああ)
長くて短い人生で、私は一体あと何度、あの人に会いたいと思うことができるんだろう。
「……、」
静かな部屋の中、知らない間に聞き耳をたてていた体が反応したのは、聞き慣れたバイクの音がかすかに聞こえてきたから。だんだん近くなるその音に心が浮き立つのを感じながら、手にもっていたマグカップをそのあたりに置いて寝室を飛び出す。
星空もホットミルクも、全てはたった一人の人へと続く道にすぎなかった。本当はそれが夕焼けでも、朝焼けでも、ジンジャーティーでもコーヒーでもよかった。あの人に繋がるのなら。あの人と繋がっていられるのなら。
あの日、あの夜、私たちは魔法にかかってしまった。どれだけ離れても、記憶を改ざんされても解けることのなかった……澄んだ水のような汚れのない魔法に。この魔法を解くことは、この世にいない神様にしかできない。私たち二人がそれを望むようなことがあっても、きっと。私たち二人の命が星に還るその日まで、きっと……きっと。
階段と、一階へ駆け降りる自分の履物が擦れる音、控えめに音を立てて開く玄関の扉。暗闇の中、ぶれることなくまっすぐ重なり合う視線に、私の呼吸は一度止まる。
「…おかえり」
大きく見開かれる夜空を模した瞳に、私は一億回目の恋をした。それは静かに音もなく、流れ星のように一瞬の、だけど滅びることのない、真っ白な閃光だった。
「…クラウド」
6.Okaeri - Moon On The Cloud