彼女は水の中から落ちてきた。
ゆらゆらと揺れるように沈んでくる体を、両腕でしっかり抱き止める。もともと驚くほど軽い子だったから、体の重さを感じないことに違和感はなかった。
俺の腕の中におさまったその人の表情を見る。思っていたよりもずっとおだやかな寝顔に、ほっとする。
その手には、持たせてもらったのだろう……いつかのピンク色のリボンが結ばれていた。水の中でも解けないように。彼女から離れることのないように。
「……」
会いたかった人の、変わることのない愛おしい顔を見つめる。いや、少し、大人っぽくなっただろうか。
さすが俺の好きになった人だ。この子の動きは読めない。いつか再びこうすることを夢見てはいたが、全く予想しないタイミングで目の前に現れた。
いつだってそうだ。
大空を誰よりも自由に飛び回ることができる、彼女は。
「……おーい」
眠り続けるその人に、声をかけてみる。いつかこうして起こしてもらったなと、昔の記憶を掘り起こしながら。
それでも彼女はまだ目覚めることはない。落ちてきた直後で意識がすべて沈みきっていないのか、その美しい目は覗かせてもらえそうになかった。
(……)
どうするかなあとあたりを見渡す。何もない空間。何もかもがある空間。彼女は今、俺の腕の中にいる。それだけでこれまで感じたことのないような安堵に包まれる。
だからどこへでも行ける気がした。どこへでもこの子を、連れて行ってやれるような気がした。
「……花畑でも探すか」
もうすぐ独り言ではなくなる声をこぼし、俺は歩き出した。
前へ後ろへ、左へ右へ。
方向はどうでもよかった。
もう俺たちには、そんなもの必要ないのだから。
花の香りで目が覚めた。
「……」
お花畑の真ん中にでもいるのだろうか。いつの間にか懐かしくなっていた優しい香りに導かれ、まぶたをあける。気づかないうちに随分長い時間眠っていたんだろう。まぶたは最初固まって、なかなか上手に開いてくれなかった。
ゆっくり意識を取り戻しながら、わたしはお花だけじゃない何かに、誰かに抱かれていることに気づく。なんてあたたかい。まるで一日中外で遊び回る子どもの体温のよう。それとも太陽? わたし、このあたたかさを知ってる。
「……ん、起きた?」
ぼんやり、水中のように揺れ続ける視界。なかなか落ち着いてくれないぐるぐるした世界の中、お花の香りよりも懐かしい声がわたしの耳に届いた。
声に導かれて、意識は水面まで上昇する。うまれてはじめて呼吸をする赤ちゃんみたいに息を吸い込めば、体の感覚が優しく再び、わたしに馴染んでくれる。
目を動かして声の主を探す。視界に入る、真っ青、空の色のような光。その光を見つけてようやく、わたしは吸った息を大きくはいた。
「…エアリス、おはよう」
ああ、見つけた。
こんなところにいたんだ。
「……ザックス、みっけ」
言いたいこと、たくさんあったけど、相変わらずの笑顔をくれる人にこんな言葉しかかけられなかった。
しっかりわたしと目が合ったザックスが心底嬉しそうに微笑む。そうか今、彼の腕の中にいるんだ。だからこんなにもあったかいんだ。さっきまで、寒いなあ冷たいなあと感じていたはずなのに、不思議だと思った。
「こんなに早く、見つかるとはなー」
おだやかな声。ただ、目を細める。
「……わたし、せっかちだから」
「ほんと。もっと、ゆっくりでもよかったのに」
「…ほんとにそう思ってる? 早く会えて、嬉しくない?」
「あ。ずるいなーエアリス。そう言われちゃうと言い返せないじゃん」
「ずるくなんて、ありませんよーだ」
冗談を言い合いながらからだを預ける。それを合図にザックスは、強い力でわたしを抱きよせる。
わたしも背中に腕をまわす。抱きしめてあげたくて仕方のなかった人を抱きしめる。抱きしめて欲しくて……仕方のなかった人の温もりを、感じる。
「……」
「……おかえり、ザックス」
「…ただいま。遅くなってごめんな」
「……待ちくたびれました」
「だよなあ……これでも頑張ったんだよ。許してくれない?」
「…すぐには許さない」
「じゃあ、許してもらうまで離れられないな」
「うん……」
たくましい腕の中で呼吸を繰り返す。もう苦しくはない。痛くはない。悲しいこと、ここに存在しない。
「…ザックス」
「うん?」
「わたし……ちょっと、頑張ったんだよ」
「うん、知ってる。ちゃーんと見てた。よく頑張ったな、エアリス」
「…見てくれてたの?」
「もちろん。特等席なんだぞ、ここ」
「もうー。教えてくれたらよかったのに」
「ごめんごめん。でも、すごいよエアリスは。俺だったらおっかなくて逃げ出してた」
「嘘ばっかり。ザックスはきっとおんなじこと、する。……それに」
「?」
「……うまくいったか、まだわからないの」
「大丈夫だって! あとはクラウドたちが何とかするさ。あいつはやる男だ。もう……知ってるだろ」
「…うん」
どちらが夢なのか、どちらも夢なのか、あるいはすべてが本当なのか。
頭の中がふわふわしていてまだわからないけれど……確かに記憶にある、わたしのしたこと、わたしが置いてきたこと。
みんなのすがた。みんなの顔。みんなの笑い声。ぬくもり。さいごまでそばにいてくれた、たいせつな、たいせつな。
「……エアリス」
いつか思い出となりゆく記憶に気持ちを寄せていると、ふとザックスに名前を呼ばれた。
からだを離して、彼の目を見る。探していた本当の青を。わたしのことを待っていてくれた人を。
「…これ、なーんだ」
「え? ……あ、リボン!」
「ほどけちゃったのかな。エアリス、大事そうに持っておりてきたよ」
「そっか……よかった。一緒に持って、来れたんだ」
「結んでやろうか」
「ちゃんとかわいく、結べる?」
「任しとけって」
どこからその自信が湧いてくるのか。相変わらずの無邪気な笑顔に頬を緩めて、体を彼から起こした。それからようやく確かめる。わたしたちが今、小さなお花畑の中に座っていることに。
きっと、ザックスが連れてきてくれたんだろう。この教会のお花畑を、あの頃のお花畑を知っているのは、わたしたち二人だけなのだから。
「…よし、じゃあ背中向けて座ってくれる?」
「はーい。おねがいします」
「エアリスちゃんを、とびきりの美人にしてもいいでしょうか?」
「うーむ、許しましょう」
「よっしゃ」
ザックスの指が頭に、髪に触れる。お母さんとお揃いの大切な髪を、彼は大事に大事に結っていく。
深呼吸をする。わたしは確かにここにいる。
まだ、ここにいる。
「…ザックス」
背中を守ってくれる、この世界の誰よりも頼もしい人に、私はもう一度からだを預ける。
「…ん?」
「わたしね……まだ、やらなきゃいけないこと、あるの」
そして、ささやかなお願いをもう一つだけ、付け加える。
「…頑張ってみたいの。わたし、みんなのこと、守りたいの」
もう少しだけ、勇気が欲しい。
もう少しだけ、わがままでいたい。
守りたいと思わせてくれたあの人たちに、この世界に、この星に生きていて欲しい。
「…だから……」
だから、ザックス。
「……このままいっしょに、いてもいい?」
勇気そのものであるあなたのそばに。
わたしに花を咲かせてくれた、あなたのそばに。
「…エアリス」
ふわり、と。
わたしを背中から抱きしめ、ザックスは柔らかく呟いた。
「俺はずっと、エアリスのそばにいるよ」
これまでも、これからも。
ザックスはわたしを、見ていてくれた。
「願いごと、全部叶え終わるまで」
終わることのない願いを、あなただけが叶えてくれた。
はなよめ
(花は芽吹く)
fin,