「キャンセル?」
よく晴れた日の朝、フェンリルに跨ろうとしたところで、その電話はかかってきた。家から離れたくない気持ちをなんとか抑え、気持ちを仕事へと切り替えてから、間もなくのこと。
電話の相手は、まさにこれから荷物を受け取りに向かおうとしていた客だった。
出だしから申し訳なさそうに聞こえた声が、俺に急な予定変更を告げる。話に耳を傾け、状況を整理するうちに、わずかにあった仕事へのモチベーションが色を失っていく。
「……」
謝罪を聞き終え、電話を切る。思わず空を見上げてしまったのは、嘆く気持ちがあったからだろうか。それともむしろ、安堵してしまったからだろうか。
理由がどうであれ、心に思い浮かべる人はただ一人だった。ついさっき、暫しの別れを惜しんだところだった、大切な、たった一人の笑顔だけだった。
「あれ?」
つい5分ほど前に通った、店の正面玄関の扉を開ける。自分自身に原因があるわけではないものの、少しの気恥ずかしさと気まずさを感じながら、俺は家の中に戻る。
早く家に戻ろうと思った、最大の理由。探すまでもなく、その人はここにいた。その人は……ティファは、昼の営業に備え、ちょうど店内でテーブルを拭いている最中だった。
「クラウド?」
手を止め、ティファは、早々に戻ってきた俺をぽかんとした様子で見る。目を丸くして驚くその表情を愛おしく思いつつ、俺はつい目を泳がせる。一体何て説明すれば格好悪くないだろうかと、情けなくも背伸びをしようとする自分を、自覚しながら。
「……。ただいま」
苦し紛れに発した言葉。わざとらしく聞こえたからだろうか。数秒置いてから、ティファがおかしそうに笑い出す。
俺はただ、忙しいだろうに作業を止め駆け寄ってきてくれるティファを、見つめることしかできない。
「ふふ、おかえりなさい」
「…うん」
「どうしたの? 忘れ物でもした?」
「いや、してない」
「なら……何かあった?」
「…あったんだが、なくなった」
「?」
「…今日の仕事が、なくなったんだ」
「……?」
ティファが再びぽかんと俺を見上げる。半分開いたままになっている口は、どうしたってかわいい。
だが、ティファを抱きしめて一息つくにはまだ早いので、とりあえずフェンリルに乗るためにはめていたグローブを外すところから始める。暗に、俺がもう家から出るつもりがないということを、ティファに伝えるために。
「…さっき、」
「ん?」
「…荷物を受け取る予定だった客から、連絡があった」
「なんて?」
「都合が変わって、発送日を変えてほしいと。まあつまり、キャンセルだ」
「…ということは」
「?」
「クラウド、今日はもう、おやすみってこと?」
「…そうなる」
突然の臨時休業。ティファは、どんな気持ちになるだろう。このまま笑い飛ばしてくれるだろうか。あるいは、励まそうとしてくれるだろうか。……それよりも、俺が急に帰宅したせいで、予定が変わって困ることはないだろうか。期待と不安で心が静かに揺れる。
だが、そんな心配は必要ないのだということを悟るのに、あまり時間はかからなかった。目の前でティファが、今日一番の笑顔を俺に見せてくれたから。
「わあ、やった!」
「え?」
「え? …あ、ご、ごめん! やった、じゃないよね。お仕事ないの、困るよね」
「…ティファ」
「間違えちゃった……う、嬉しくて、つい……」
「……」
ついさっきまで、挙動不審なのは俺のほうだったのに。「間違えた」らしいティファは、慌てて自分の頬を両手で覆い、急に赤くなった顔を隠そうとしている。だが、時すでに遅しだ。ティファが言ってくれた、嬉しいという言葉も、喜んでくれる笑顔も全部、俺の中にインプットされてしまった。
(…ティファ)
俺自身も笑みを隠しきれなくなり、考えるより先に腕を伸ばす。それからティファに許可を取る前に、ティファを腕の中に閉じ込める。だらしなくなっているであろう自分の顔を隠すため。何より、嬉しいと思ってくれたティファの想いを、このまま逃したくはなかった。
本来であれば、フェンリルでエッジを駆け回っているはずだったこの時間。ほんの一部とはいえ、収入が減ることがよくないことはわかっている。だが、今ティファを抱きしめられたこの時間より、大切な時間があるだろうか。優先すべき時間があっただろうか。
「く、クラウド」
「……。間違えてない」
「え?」
「…俺も嬉しい。ティファが喜んでくれて」
「…クラウド」
ほっとしてくれたのだろうか。抱きしめている体の力が抜けたのがわかる。それからティファも恐る恐る、俺の背中に腕をまわしてくれた。安心したような、柔らかい吐息とともに。
「…ふふ、うん」
「……。癖になりそうだ」
「ん?」
「…仕事を直前でキャンセルすることが」
「あはは、もう。だめだよ? 悪いこと覚えちゃ」
「…頑張る」
「ふふふ」
少しだけ体を離したティファが、機嫌良く俺の頬にキスをした。嬉しさのあまり体が硬直するのを感じつつ、なんでもないふりをして、お礼に唇に口付けを返す。いつだって甘いティファを味わいながら、朝からこうしてスキンシップを取れる今に、何度目かの感謝をおくる。
(…本当に)
癖になってしまいそうだ。全てを差し置いてティファを選ぶ、背徳感の混ざるこの喜びは。
「……」
「……。…ティファ」
「ん……?」
「…店、手伝っていいか」
「え、いいよ! 気にせず休んで? せっかくのおやすみなんだから」
「いや、疲れてない。それよりティファのそばにいたい」
「クラウド……」
「…だめか?」
「……。だめって、言えるわけないじゃない……」
また赤くなってしまった顔を隠すように、ティファはぐりぐりと、額を俺の肩に押し付ける。その反応と、受け入れてくれた事実が嬉しくて、俺もまたティファの見えないところで頬を緩ませる。
俺の帰宅を知らない子どもたちが、二階から駆け降りてくるまで、俺とティファは離れられずにそばにいた。慣れて擦り減るどころか、日に日に募っていく想いをコントロールするつもりがないことを、俺は静かに自覚していた。
箍(たが)は溶けていく
(経年劣化、するように)
fin,