ごめん。今夜中に帰れそうにない。
閉店後、ちらりと覗いたメールの文面。たった数文字なのに、仕事終わり晴れやかだった心は一撃で地の底に沈む。こんなこと初めてではないし、仕方ないって頭は理解しているのに、なんだか今日はだめだった。クラウドに会えないのは、何だかどうしても、だめだった。
がしゃんと乱暴に置いてしまった食器。台所もきちんと綺麗にしないまま階段をずかずか上る。道中、子ども部屋から顔を出していたマリンが、ティファおやすみ、と、笑顔で声をかけてくれる。私は今できる最大限の笑顔で返事をしたけれど、多分不細工だっただろう。だけど、なんだかダメな私は、マリンに「どうかしたの?」と気を使わせてしまう前にその場を去る。そして再びずかずかと、寝室へと足を進める。
今夜は久しぶりに、二人で仕事終わりにゆっくりできるね。そう話したのは一週間ほど前だった。繁忙期に入ったクラウドと、ありがたくも繁盛しているお店。同じ屋根の下で暮らしているはずなのに、私たちは近頃すれ違いの生活を送っていた。
一緒のタイミングでベッドに入れなくても、同じ時間に目覚められなくても、心が繋がっていれば平気。そんな綺麗事を言えるほど、まだまだ余裕も自信もないから、ずっと楽しみにしていた。私も、クラウドも、日付が変わる前に仕事が終わって、何もせずとものんびり過ごせる時間が来ることを。
だから今日は、特別だった。予定通り行けば、久しぶりに仲良く一緒にベッドに入ることのできる夜だった。クラウドから、あのメールが届くまでは。どこかの誰かさんが、忙しい彼に仕事を追加で頼むまでは。
「…………ばか」
ばたん、と閉じたのは寝室。電気をつける元気すらないまま、私はベッドに体を沈ませる。シャワーを浴びなくちゃ。明日の朝ごはんの準備もしなくちゃ。いろいろと思いつきはするけれど、心はもう動くことを拒否している。きらきら輝いて見えていた「今夜」という時間は、あっけなくも無価値なものへと変わっていく。
(…ばか)
ばか、ばか。クラウドのばか。断ってくれてもいいのに。今夜のような時間くらい、優先してくれてもいいのに。そんなにお仕事、頑張らなくていいのに。それよりももっと、一緒にいたいのに。約束……守ってほしかったのに。
口に出さなければセーフだと思って、ここぞとばかりにクラウドにどうしようもない愚痴をぶつける。頭の中に、困ったように謝るクラウドの顔が浮かんだ。ごめんね、クラウド。わかってる。あなたに悪気がないことも、あなたが優しい人だということも。だけど、それとこれは別。残念ながらあなたの優しさと、いまの機嫌は比例しない。何もかも飲み込んで、大丈夫だよと心から言えるほど、私はできた人じゃない。
「…………はあ」
ぶつぶつ、ぶつぶつ。
心の中で悪態をつきながら、シーツに伏せる顔。なんだかなあ。今夜はいっしょに笑い合えるって、あたたかい体温をゆっくり感じられるって、うきうき張り切って仕事していたのがばかみたい。
クラウドのせいじゃないのに、クラウドのせいにしなくちゃ気持ちが収まらない、子どもな自分が情けない。仕方ない、仕方ない、と念仏のように唱えるしか、今この気持ちを抜け出す方法がなさそう。
ねえ、お願い。神様、意地悪をしないで。
ただ、会いたいだけなの。家族にしか見せない、あの優しい笑顔を見つめたいだけなの。抱きしめて欲しいだけ。抱きしめたいだけ。おやすみって、おはようって……言いたいだけ。
「…………」
ベッドに頭から飛び込んでから、何十分経っただろうか。ちくたく、ちくたくと、時計の針が進む音だけが部屋に響いている。
我儘を言っていないで、そろそろ本当に寝ないといけない。せめて、明日の朝眠そうに起きてくるクラウドに、おいしい朝ごはんを作ってあげたい。だからその前に、シャワーを浴びないと。シャワーを浴びたら……いろいろと準備をしないと。
どんどん底なし沼に落ちていく気分。それを予告なしに、ぐいんと上に引っ張り上げたのは……聞こえるはずのない、クラウドの声だった。
「………、ティファ?」
「!」
突然、部屋の入り口から飛び込んできた声に、がばっと顔をあげる。
慌てて振り返ると、同じく慌てて帰ってきたのか、珍しく肩で息をするクラウドの姿があった。
(え……)
「く、クラウド?」
「? ああ……遅くなってすまない」
クラウドはきょとんとしながら、謝罪の言葉を口にする。私も、驚きを隠せないまま言葉を続ける。
「う、ううん。どうして? 今日、帰れなかったんじゃ、」
「え? あ……ごめん。日を跨ぐ前には帰れない、という意味だった」
「あ……」
自分が意味を取り違えていたことを察しながら、何となく時計に目をやる。時刻はたしかに、もう0時を過ぎた。クラウドの言う通り「昨日の夜」は終わっている。彼にとっての約束の時間は過ぎている。
(…それでも)
クラウドは、帰ってきてくれた。疲れているはずなのに、走って、慌てて、帰ってきてくれた。
これ以上、申し訳なくて……だけど嬉しいことって、あるだろうか。
「……うう〜…」
「! ティ、ティファ?」
「おかえりなさい……」
「ただいま、……ただいま、ティファ」
感情のジェットコースターに乗っている気分って、こういうことを言うのだろう。ついつい、穏やかさを保てず破顔してしまう。ほっとした気持ちと、嬉しい気持ちと、ちょっぴり切ないような気持ちと。
おそらく珍しく、私が泣きそうな顔をしたものだから、クラウドはさらに慌てて抱きしめに駆け寄ってきてくれた。本当に走ってくれたんだろう。思っていた体温よりも、少し高いクラウドの温度。背中に手をまわしてぎゅうと抱きしめる。それから、今日一番の深呼吸。嬉しい、嬉しい。……嬉しい。
「……、クラウドだ」
「ん……。……久しぶりな気がする。ちゃんと、こうするのは」
「うん……久しぶり」
「……これは暫く、離れられそうにない」
「ふふ……私も」
お互いにお互いの背中をゆっくり撫でながら、手のひら全体で存在を確かめていく。息をするたびに、クラウドの安心する香りがして、多幸感で満たされる。
久しぶりと言ったって、一年とか、一ヶ月とか、そんな大した期間ではない。それでもお互いに、少し一緒にいないだけで「そう」感じてしまうことが嬉しくて、緩んだ頬は戻る気配を見せない。
いるかどうかもわからない、神様。さっきは沢山愚痴をこぼしてしまってごめんなさい。
ありがとう。願いを叶えてくれて。クラウドを無事に……ここまで連れて帰ってきてくれて、本当に。
「…ティファ」
「……?」
「…あと少しだが、一緒に過ごしてくれるか?」
「…うん!」
「ありがとう。とりあえず……」
「?」
「…どこから、一緒に始める?」
「……お風呂から、どうでしょうか」
「…名案だな」
乱暴にベッドに投げ出した体を、クラウドは大事に抱き上げてくれる。急降下していた気持ちは、最初のうきうきしていた頃より上へとあがっていく。
結果が良ければ全てよし、なんて。数分前の自分が聞いたら呆れる事実を、私はクラウドの腕の中で噛み締めた。この体温がそばにある限り、奈落の底へは落ち得ないのだと。
しゃぼん玉を見繕う
fin,