「今夜は離さない」
クラウドはそう、耳元で呟いた。台所に立ち、明日の下ごしらえをする私を後ろから抱きしめたまま、拗ねたようにぼそぼそと。有言実行するように、その腕は私のお腹に巻き付いている。体もピッタリ私に張り付き、ちょっとやそっとのことじゃ、剥がせそうにない。
今夜は離さない。普段だったら、言われたらどきっとしてしまいそうな文句。だけど、今日の私の心臓はもう、このセリフだけで飛び跳ねたりはしない。なぜなら今夜、この文句を聞いた回数は、6回を超えるから。普段私の名前を呼んでくれるのとほとんど同じ頻度で、クラウドは私に「離さない」宣言を繰り返していた。
「……。クラウド?」
「…ん?」
「あのね、冷蔵庫から牛乳を取りたいなー……なんて」
「…俺が取る」
「あ、ありがと……」
私のお腹を片腕でぎゅっと抱いたかと思うと、クラウドは器用にもう片方の腕を伸ばし、冷蔵庫からお目当てのものを取ってみせる。そして、お目当ての牛乳を私に渡したあと、何事もなかったかのように再度、私を後ろから抱きしめた。
そう。今夜、クラウドは私から離れない。二時間ほど前に私がやってしまった、ちょっとした過ちのせいで。
「…クラウド」
「…どうした」
「その……寝てていいよ? 明日の準備、もうちょっとかかるから」
「……言っただろ。何を言っても離れないぞ」
「…本当に、そのつもりなの?」
「当たり前だ。諦めてくれ」
「う……」
「…ティファが悪いんだからな」
「……クラウド」
クラウドは拗ねている。というよりむしろ、動揺しているのかもしれない。私に対して、というより、クラウド自身に対して。
クラウドがこうなってしまった原因。それは、子どもたちが寝静まったくらいの遅い時間、私が一人で外出してしまったことにあった。
私も一応大人だし、お店のオーナーでもあるのだから、色々な用事で一人行動することはよくある。それをクラウドが咎めることは、もちろんない。だけど今回はタイミングが悪かった。私がこの時間に外出したのは、最後に出ていったお客さんの忘れ物を届けるため。それだけならよかった。私がお店を飛び出した直後に、クラウドが仕事から帰ってくるという、偶然さえ起こらなければ。
無事忘れ物を渡し終えて、戻ってきたとき。お店の前で慌てる、真っ青な顔をしたクラウドと目があった瞬間、私は全てを悟った。明かりの灯ったまま無人となっている不自然な店内を見て、クラウドがどんな気持ちになったかを。
(……)
クラウドの体温を背中に感じながら、着々と進める、明日の営業のための下準備。いつもは、私の話に耳を傾けながら優しい表情でそばにいてくれるクラウドだけれど、今夜は少し様子が違う。私の肩に顔を埋めたまま、瞼を閉じて、ただただ抱きしめてくれるだけ。その腕にこもる絶妙な力加減から、どうやら私を責めきれないらしい、クラウドの優しさを感じる。
心の中をぐるぐる回る、心配させてしまって申し訳ないという気持ちと、心配してもらえて嬉しいという気持ち。この相反する感情に、これまで折り合いをつけられたことがないから、私はクラウドに甘えながら、曖昧にして泳がせる。
まだ余裕が戻らなそうなクラウドと違って、私の心は穏やかだ。
そこから生まれる罪悪感をしっかり噛み締めながら、少しでも早くクラウドと眠れるように、準備を急ぐ。
かちこち、かちこちと、時計の秒針が進む音がする。耳元でクラウドが、たっぷりとした、だけど穏やかに聞こえるため息をついた。
「……」
「……、クラウド」
「……?」
「…ごめんね。心配かけて」
「……いや。ティファは悪くない」
「…さっき、私が悪いって言ってたよ?」
「…ティファ」
「ふふ、ごめんごめん」
「……。やっぱり、だめだ」
「ん?」
「まだ、離すわけにはいかない」
「…まだ、だめ?」
「うん……。まだ」
お腹を抱く力に、クラウドは再び力をこめた。その強さに、きゅっと締まるのは私の心。相変わらず複雑で、一言でまとめきれない、クラウドにだけ生まれる愛情。
少し前のことだから、さっきのことをまだ鮮明に思い出せる。夜の闇の中、私を見つけたクラウドの泣きそうな顔も、私をかき抱いた腕の強さも。半ばすがるように名前を呼んでくれた声も、震える吐息も。
だけど、覚えていては、いけないような気がした。いま確かに感じている、喜びのような感情は。
(……)
「……。よし」
「……?」
「お待たせ。準備、終わったよ」
「…もういいのか?」
「うん。ごめんね、遅い時間まで付き合わせちゃって」
「いいんだ。俺が勝手にやってることだ」
「…ありがとう。……じゃあ、もう寝る?」
「……うん」
「…あ。だけどその前に、シャワー浴びたいな」
「…俺も入る」
「先、入ってきていいよ」
「いや、ティファと入る」
「…もう。離さないって、そこも?」
「……いやか?」
「…その聞き方はずるい」
照れ隠しをすることしかできない私に、クラウドはキスをする。仲直りのために始まった優しい口付けは、やがて熱いものへと変わっていく。キスも、スキンシップも、言葉のやりとりも。手段が違うだけで、目的はいつも一つだった。存在することは伝えたい、だけど深くは知らないでいてほしいこの想いを、どうにか相手に渡すための、方法に過ぎなかった。
短くはない時間唇を重ねてもらって、十分にあたたまった私の手を、クラウドは優しく引いて歩き出す。
この人が連れて行ってくれる場所なら、どこへでもついて行ってしまうのだろうな。クラウドの大きな手を握り返して、ふらふらと歩きながら、私はそんなことをぼんやり、頭の奥で考えた。
やわらかな鎖
fin,