もしもしクラウド?
受話器をとってすぐ、声を聞く前にその名を呼んでしまう癖がつくほど、あなたがくれる電話の数は多くなった。夜の八時以降、お店にかかってくる電話の大半はクラウドからのもの。近頃は子どもたちが気を使って受話器を取るのを待ってくれるくらい、家族の中でも日常のことになりつつある。
『あ……俺だ』
先に私が名前を呼んでしまうものだから、電話先のクラウドはいつも少し戸惑いながら教えてくれる。「俺だ」じゃ名乗ったことにならないと思いながらも、名乗らずともわかりあえる関係が家族らしくて、私は結構これが好きだったりした。
「ふふ、やっぱり。お疲れさま」
『…ああ』
「もうお仕事終わったの?」
『うん。十一時には着くと思う』
「わかった。ご飯用意しとこうか?」
『…頼む』
わざわざ出先から電話をかけてくれるクラウドが教えてくれるのは、たいてい「帰る時間」と「ご飯の要否」だけ。普通の恋人同士が交わすかもしれない愛の言葉はもちろん、無理な長電話もしようとしない。クラウドはいつも私にちゃんとメッセージが伝わったことと、家と店に変わったことがないことだけを確認してから、1分もしないうちに電話を切る。だけど人との関わりにおいて律儀なタイプではないクラウドが、こうして日々のたった1分でもくれることは嬉しい以外の何ものでもなかった。
もしもしクラウド? それを言うのが一日の楽しみへと変わるくらいに、あなたと頻繁に電話で話すようになった。
クラウドから電話をもらったときに「珍しいね」と喜んでいたのが嘘のよう。あのときはあのときで、電話下手な彼が気を使って考えてくれる一言一言が嬉しくて、もらった言葉を噛み締めるように大切にしていたっけ。
「…ティファ、」
閉店直後のお店の扉が勢いよく開かれた、日付が変わる少し前の時間。慌てた様子でクラウドが帰ってきたのは、私がひとり呑気にお店の後片付けをしていたとき。
「あ、おかえりなさい」
電話での予告通り、十一時台に帰ってきてくれたことを内心喜びながら大切な人の帰還に胸を撫で下ろす。時間も時間だからはやくご飯が食べたいかもしれないとクラウドに話しかけようとしたけれど、彼はご飯のことなど忘れた様子で申し訳なさそうに私に謝った。
「すまない、ティファ」
「え?」
何に謝られたのかが分からず、作業を止めてきょとんとする。私が状況を理解していないことを悟ったクラウドは、悪いことをして怒られにきた子どものような表情をして、目を逸らしぽつりと呟いた。
「予定より遅くなった」
「何が?」
「……帰ってくるの」
遅くなったという言葉を聞いてから再度確認する時計。確かにクラウドが戻ると言っていた時間から30分くらい過ぎている。だけどこんなの日常茶飯事だし、これくらいの誤差なら仕方がないし、何なら帰宅時間を知らせてくれるだけで十分有難い。
「いいのに、これくらい」
「でも……これじゃ時間を伝えた意味がない」
「そんなことないよ。大体でもわかったら助かるから」
「…それならいいんだが」
いい、と言いながら不満足そうな表情。
グローブを外しながらつく小さなため息。私に対してというより、自分自身に対して呆れている様子のクラウドがほんのすこしかわいくて、荷物を受け取りながら理由を聞き出してみる。
「どうしたの? 気に入らないって顔してるけど」
「…いや。うまくいかないなと思って」
「うまくいかない?」
「うん。……ティファに安心して欲しくて、電話しているつもりだったんだが」
「あ……」
「…逆効果になっていたら、すまない」
(…そういうこと)
とぼとぼ席へと歩くクラウドの背中を見つめながら、一人納得する。クラウドが最近たくさんの電話をかけてくれていたことの本当の意味を。それは「急に電話が好きになった」とか不思議な嘘をつかれるよりずっと納得のいく、クラウドらしい素直な理由。だけど、クラウドが語るとなぜか違和感の残る……安心という言葉。
「……」
ご飯の支度をしながら、私は静かに認識した。安心というものを、あまり欲しがっていない自分の心を。
「……もしもし、クラウド?」
こんこん、と薄い部屋のドアをノックしてから声をかけたのは、お風呂から出てもまだ眠ろうとする気配のないクラウドの背中。ややこしい伝票でもあったのだろうか。ちゃんと机に向かいペンを持ち、何かに悩んでいるように見える。
流石にもう休んだ方がいいよ。そう言おうと思って呼んだ名前はまっすぐクラウドの元に届き、彼を振り返らせてくれた。
「…ん?」
「…まだお仕事する?」
「ああ……もうちょっとだけ」
「…夜食作る?」
「いや、いいよ。ありがとう」
「ううん」
腰掛けている椅子をひいて、体ごとこちらを見てくれるクラウド。優しいこの人の口から「おやすみ」の言葉が続くのは、きっともう時間の問題。
だから私はその前に、クラウドの仕事部屋に足を踏み入れる。そうすればクラウドが自然に両腕を広げてくれることを知っているから、勇気はほんの少しだけでいい。
「……、」
思い切ってその腕の中に飛び込めば、クラウドは当たり前のように、動じることなくぎゅっと体を抱きしめてくれる。
それからクラウドの膝に腰を下ろし、逞しいその胸に遠慮なく体重を預けながら、私は心の中で話しかけた。
大丈夫だよって。
安心なんて……私が欲しいものなんて、もうこれでいいんだよって。
「…ティファ……」
自惚れてしまうほど愛おしげに名前を呼ばれる。
壊れものを扱うように私を抱き寄せるその腕は唯一、私を傷つける方法だけを知らない。
「……ごめん。お仕事の邪魔してる」
「…ううん。いいんだ」
「……。遅くまでお疲れさま」
「ありがとう。……今日も家のこと任せきりだったな」
「いいの、お店そんなに忙しくなかったから。あ、洗濯物だけちゃんと出しておいてね」
「ああ。……最近はあまり、溜めてないと思う」
「ふふ、うん、頑張ってるね」
抱きしめ合いながら交わす、たわいもない会話。まるで離れてしまわないための時間稼ぎをしているよう。
次々に不急ではない話題を思いつく自分に苦笑する。今忙しいんだ、離れてくれ。クラウドがそういうことを言わないこと、知ってて離れようとしない私は、知らない間に甘え上手にでもなったみたい。
「……よし」
そんな時間に終わりを告げたのは、大きく息をついたクラウドの一言。今日はさよならかと残念に思い、おそるおそる顔をあげると、なぜか嬉しそうな彼と目が合う。
「…?」
「寝ようか、ティファ」
「え……いいの? お仕事、」
「明日の朝、早く起きてする」
「…ごめん、ほんとに邪魔しちゃった」
「いや、いいんだ。……気持ちがもうティファに移った」
クラウドはさらりと私を口説く。欲しい言葉のそれ以上を惜しげもなくくれる。それは安心とは少し毛色の違う、もう少し欲望と近い場所にある愛情。
わがままな私の口からは、これ以上「ごめん」の言葉は出てこない。なんて女だ、と思う。「仕事」から彼を取り戻せた、なんて本心では喜んでいるんだもの。ペンを握るのではなく、私の頬に触れることを選んでくれたクラウドを嬉しく思っているのだもの。
(……ね、クラウド)
あなたが私の欲しいものをくれなかったときなんて……一度もない。
「……、ふふ」
「……」
「あはは、ふふ、」
寝室に、私の子どものような笑い声が控えめに響く。
笑わせるのは言わずもがなクラウド。ベットの中で私を腕にしっかり抱き、首筋に、頬に、唇に、たくさんのキスをくれている。性的なものとは違うスキンシップが心地よくて、私はくすくすと笑って見せる。いま、あなたに満たされているのだと、一生懸命に伝える。
「ティファ」
「、うん」
「…、ティファ……」
「…ん、クラウド」
「……。ずっとこのままでいたい」
「明日の朝、残業が待ってるもんね」
「…忘れさせてくれ」
「ふふ、…ん」
これ以上揶揄わせないとばかりに落ちてきたキスは、もう子犬のそれじゃない。ようやく狼さんが遠慮を捨てて食事をする気になったと、私は密かに心を躍らせる。まるでこれはフルコースだ。いくら出したって、お釣りがいらないくらいの贅沢だ。
もう十分。もう満足。それでもあなたは私に、何かを贈ってくれようとする。だけど私は欲張りだから……「もういらないよ」とは言えずにいる。
もしもし、クラウド。聞こえてる? 聞こえたのなら、聞こえなかったふりをして。
本当は……クラウドとふたり、生ぬるい不安の中に身を沈め続けていたいと願う、わがままで人間くさい私の本音を。
「……、クラウド」
「ん……?」
「……呼んでみただけ」
「…本当に?」
「……ほんとう」
「…それは、本当じゃないときの顔だな」
「…わかるの?」
「当たり前だ。……どれだけティファを見てきたと思ってる」
「……、」
貫くような視線から、私の心臓は逃げられない。余計なことは投げ捨てて、あとはなすがままになる。
クラウドの逞しい腕に、優しく優しく包まれながら考えた。クラウドは全部、わかっているのかもしれないと。わかってくれて、いるのかもしれないと。
ノック・ノック・ジンジャー
fin,