! caution !
ジルが鉄王国で過ごしていた頃のことを振り返っています。
その頃の具体的な描写はありませんが、少ししんどいかもしれないので、苦手な方はご注意ください。
それはまるで、釘を一本一本抜いていく行為。
ジルに突き刺さる氷の刃。数えることもできないそれは、何年もかけ、心と体に深く刻み込まれていた。傷ついていない場所など、おそらく探す方が難しい。他人に無理やり刺された刃もあれば、自分を戒めるように刺されたものもある。ジルは恐らく自らその刃を抜くことをせずにいた。罪の証とでもいうように、彼女はこの氷を体に宿して生きてきた。重く、冷たく、痛々しいそれは、刺々しく彼女の中にあった。
「ジル」
十秒に一度、というと大袈裟だろうか。俺はそれほどの頻度で、ジルの名前を呼び続けた。痛みや恐怖、怒り憎しみ、ジルは目の前でそれらと戦い続けていた。耐えきれなくなると目を瞑る。俺はそれを阻止するため名を呼び、瞼を開けさせ、口付けをする。ジルの手を取り、俺の体のどこかに触れさせておく。今、ジルが一人ではないことを伝えるために。目の前にいるのが、俺だということを認識してもらうために。
「…ジル」
「……、」
(……)
ジルの痛みを少しでも和らげてやりたい。できることなら、この手が届く範囲で彼女を癒してやりたい。そう思って始めた行為なのに、ジルに刺さる刃を一本一本抜くたび、俺の中で憤怒が破裂しそうになるのは、一種の因果だろうか。
どうして助けられなかった。どうして守ってやれなかった。
どうしてジルがこんな経験をしなくてはならなかった。どうして、どうしてどうしてどうして。
刃を引き抜き、彼女から目に見えない血が溢れる。俺はその傷に触れ、不器用に癒し、また進む。
抜き取った刃は、代償と言わんばかりに俺自身に突き刺さる。怒りで我は吹き飛びかける。自分の無力さへの憤り、ジルを傷つけた奴への憎しみ。合い入れていいはずのない負の感情は混ざり、溶け、溜まっていく。心はずたずたになる。苦しみと戦う彼女を見守りながら、俺はただ自身の唇を噛む。
(……っ)
痛い。苦しい。悲しい。悔しい。
ジルは、これに耐えてきたのか。これの何十倍、何百倍の痛みを、十数年も抱えてきたのか。
辛かっただろう。憎かっただろう。怖かっただろう。悔しかっただろう。消えてしまいたくもなっただろう。
彼女の刃を抜いてやることができても、痛みを完全に取り去ることができない悔しさで、気が狂いそうになる。いつも俺に、癒やしや温もりをくれる彼女へ、そういったものを何も与えてやれない自分自身の弱さに、強い吐き気を覚える。
仕方なかった? お前だってそのとき奴隷の扱いを受けていたから? 違う。違う、違う違う。これは、仕方ないなどという言葉で済まされるものではない。どのような状況であれ、事実は変わらない。俺は無力だった。そして今も、俺は。
(俺は、)
「…………」
「……、…クライヴ……?」
名前を呼ばれ、ようやく、怒りで失いかけていた自我が体に戻るのを感じた。彼女のためにと、この手を滑らせていたのに、いつの間にか目の前が真っ暗になって、彼女さえ見失いかけていたようだった。
(何をやっているんだ……)
首を振り、意識を手にしてから、慌ててジルの顔を見る。見下ろす先には、心配そうな顔をする彼女がいる。
ジルは瞳を潤ませたままゆっくり俺に腕を伸ばす。その手は躊躇なく、ベアラーの刻印があった頬に触れ、撫でる。
ジルが親指で涙を拭ってくれたとき……ようやく、俺は自分が泣いていることに気がついた。
(え……)
「あ……、…ジル……、」
「…クライヴ」
「ごめん、どうして俺が……」
「……、」
「ごめ、……ごめん、ジル、」
「クライヴ」
取り乱しかけた俺を、ジルが両腕で抱き寄せる。彼女は冷たくも温かい特別な温度で、沸る地獄の炎を鎮めていく。
クライヴ。お前が泣いてどうする。
お前がジルを心配させてどうする。
「ジル……」
「…クライヴ。お願い、無理しないで」
「ジル……すまない。苦しいのは君なのに、」
「いいえあなたもよ。あなたは優しいから。優しすぎるから」
「だめだ。優しさだけじゃ、君は……」
「いいの。いいのよ、…クライヴ」
「……、」
懺悔をする俺の腕の中。穏やかだったジルの声が、だんだん震えていくような気がした。
ゆっくりと体を離し、彼女の顔を覗き込む。ジルは、しっかり俺を見つめながらぽろぽろと涙を流していた。それなのに……その口元にあるのは悲しみではなく、微笑みだった。
(どうして、)
どうして君は……今、そんなに優しく微笑むことができる。
「……ジル」
「…クライヴ。……私、嬉しいの」
「……、」
「あなたが私を癒そうとしてくれるのが。怖がらず、こんな私に触れてくれることが」
「……ジル」
「だから、だめだなんて言わないで。あなたの優しさが、どれだけ私を救っているか。どれだけ……」
「ジル、」
これ以上を、ジルに言わせてはいけないと思った。
もういい。そう告げるために、彼女の唇を自身のそれで塞ぐ。髪を掻き分け、彼女の頭を抱き寄せる。それはジルをあやしているようでも、あやされているようでもあった。俺たちはキスをしながら、互いに呼吸を整えていく。彼女と重なりようやく……俺は、人としての体温を取り戻していく。
(……ジル)
すまない、ジル。俺は君に何を言わせているんだ。
君を恐れる? 君を、拒む? 君が君を否定せず済むように、俺に何ができる?
「……。…ジル」
「……」
「ありがとう。すまない……俺はもう大丈夫だ」
唇を解放したあと、俺はじっと彼女の目を見つめる。ジルは瞳を潤ませながら、小さく首を縦に振る。
ジルは俺を見てくれている。俺を信じていてくれる。
「…ジル」
「……?」
「…まだ、大丈夫か? ……君が平気なら、俺は続けたい」
「…クライヴ……」
「君は? 辛くないか」
「……私は何も辛くない。あなただもの」
「…ジル」
こんな俺に尚、心を預けてくれる君へ。この手が震えていても、頬に触れることを許してくれる君へ。
俺は、君をすぐには癒せないかもしれない。人を救うことは、本当に難しい。救いたい、救われたいと願っても簡単には進めない。心に傷を負うということは、そういうことだから。傷つくということは、それほどまでのことなのだから。
それでも俺は、君を救いたい。この命ある限り、君を守りたい。悔いた過去の分だけ、未来に悔いのないよう、この身を挺して君の盾となりたい。君が大切だから。君は、失えばもう、二度がないのだから。
だから、もう少しチャンスをくれないか。君に、時間を使わせてくれないか。
大切な君に、心の底から笑えるような日が来るために。君が、もう大丈夫だと……心の底から思える日のために。
「…ジル、触るよ」
「…ええ……」
もう一度、ひんやりと温かい肌に触れ、氷の刃と向き合う。頑丈な氷はやはり痛いほど冷たく、悲しい。それでももう、彼女を置いて逃げたくないから、俺は丁寧にそれを抜き取る。できる限り痕が残らないよう、愛とも呼べる力を使う。
「…クライヴ」
そんなとき。俺の腕にふと、ふわりと触れてから、ジルは小さな声で名前を呼ぶ。
彼女の顔を覗き込むと、ジルはゆっくり大きな息をつき、脱力するように目を細めた。
「…、ありがとう」
「……」
「…ありがとう、クライヴ」
ジルは微笑んでいた。
その笑顔は俺に……あの頃の彼女を、思い出させた。
「私はもう十分……あなたに救われたわ」
ダイアモンドの聴許
fin.