たっぷり汗をかいた肌を、いびつな音を立てて動く冷房が冷やしていく。

 

短い、制服のスカート。生身の脚に直接触れるのは、ふわふわした緑色の座席。

腕の中に抱く、学生鞄。顔をあげると窓の向こう、もくもく膨れ上がる入道雲が目に映る。

 

お昼二時、ただでさえ利用客が少ないこの路線。

いまこの車両に乗っている人は誰もいない。私と、静かに隣に座っているもう一人以外は。

 

「……」

 

ちらりと覗き見たその人は、さっきまでの私と同じようにまっすぐ、窓の向こうの雲を見つめていた。芸術的というと本人は怒るだろうけど、いつまでも飽きることのない綺麗な横顔に釘付けになるのは、もう何百回目になるだろう。

 

私の左手に繋がる、彼のひとまわり大きな手。

いっしょに学校を抜け出して、無言でただ走って、走って。こうして無事、電車に乗り込むまで一度も離れることはなかった手。試しにいま私が力を緩めても、彼はそれを緩めることをしない。

 

(……)

 

ガタンゴトンと、列車は揺れる。遠くから、近くから、静寂は許さないとでもいうようにセミの鳴き声が響く。

 

『まもなくー天望山ー、天望山ー』

 

十五分ぶり、くらいだろうか。とつぜん車内に響いたアナウンスに私はひとり体をびくりとさせた。

隠していた不安と罪悪感が、思い出したように溢れ出し、鞄を抱く腕にぎゅっと力がこもる。

 

それから私は彼を見た。「天望山」という停車駅のことを確かめたくて、私はクラウドを見た。

 

「…クラウド」

 

呼ばれた人はそっとこちらに顔を向ける。それから落ち着いた様子で、穏やかに頷く。

 

「…降りよう、ティファ」

 

その瞳はいつだって、私に、大丈夫をくれた。

 

 

 

 

 

 

 

高校二年の夏の今日、私はたくさんの嘘をついた。

 

まず、朝起きてすぐパパに「今日はエアリスと夜まで遊ぶ」と伝えた。本当はそんな予定はなかった。少し遅くなるけれど心配しないで。何かあったらエアリスに連絡してと、夜遊ぶことをよく思っていないパパに偽りの安心材料を与えた。

 

仲良しのエアリスを巻き込んだ。パパから連絡があったら私と遊んでいることにしてと、今日の計画を共有した上で彼女に「嘘つき役」をお願いした。エアリスはなんだか楽しそうにしてくれていたけれど、こうしたことに慣れていない私にとってこれは立派な罪だった。

 

学校を早退した。顔色もいいし体調で悪いところなんてひとつもないのに、熱中症のふりをしてお昼休みに校舎を出た。帰っても誰もいないからエアリスの家に身を寄せますと、エアリスのお母さん、エルミナさんまで巻き込んだ。先生にそう伝えた。パパももう知っていると、追加で嘘をついて。

 

炎天下の真昼。私はたくさんの嘘の世界の上を走った。校舎の外の世界を目掛けて。ただひとりの人を目掛けて。

今日を最後に会えなくなる、たった一人の大切な人のところへ。

 

 

 

 

 

 

 

『天望山ー、天望山ー』

 

暑さの中、やる気のなさそうな車掌さんのアナウンスを聞きながら、二人手を繋いで電車から降りる。冷房の世界にいたせいですっかり忘れていた、むわっとした湿気に襲われたけれど、クラウドは私の手を離さない。

 

降りたのは、この駅舎以外の建物が見当たらないほど人気がない小さな駅。地元も決して都会ではないけれど、そこでさえ聞けないような虫や鳥の鳴き声が、彩り豊かに響き渡る。

 

「おや?」

 

そんな世界を歩き始め、改札口を通るとき。私たちに声をかけたのは、年老いた駅員さんだった。

 

「?」

「見慣れない制服だねえ」

「あ……」

「こんな昼間に……あ、てすと週間? か何かかね」

 

(…どうしよう)

 

きっとこの人は、長年ここに勤めている人に違いない。私たちが遠い場所の学校の生徒だってこと、きっとすぐにバレてしまう。

私は動揺し、クラウドを見る。だけどクラウドは慌てることなく真っ直ぐに、駅員のおじいさんを見て返事をした。

 

「そうです」

「そうかいそうかい。で、どっから来たんだい」

「7つくらい前の駅」

「ほう、あんな街から? なんでまた、こんなところに」

「…星を見に」

「あーはいはい、山の上のねぇ、名物のやつだね、わしも長年ここで星を見ているが、山頂から見るのは格別……」

「あの」

「ん?」

「…バスが出てると聞いたんですが」

「そうそう、バスはあっちだよ。一時間に一本もないから気をつけて。帰りの時刻表もちゃんと見ておくんだよ」

「ありがとうございます」

 

(…わあ)

 

ちゃっかり、バスの情報まで聞き出してしまったクラウド。呆気に取られつつ、私も小さくおじいさんに会釈する。おじいさんがにこにこしていることを確認して、早歩きをするクラウドについていく。

 

駅舎を出たあと、ようやくほっと一息。おじいさんの姿が見えなくなったのを確認してから、私は小声でささやいた。

 

「……どきどきしたね」

 

ありがとう。次いでそう告げると、クラウドは少しほっとした表情でこちらを見て、同じく小声で会話を続けた。

 

「…ティファ」

「ん?」

「制服は何かと目立つ」

「う、うん」

 

クラウドは真面目な声色で、ちょっと楽しい提案をしてみせた。

 

「…服を買おう」

 

いよいよ駆け落ちっぽくなってきたと、このときわくわくしたことを……よく覚えている。

 

「……うん!」

 

 

 

 

 

 

クラウドが街を出ることを知ったのは、クラウドの就職が正式に決まったあとのことだった。

 

幼馴染。三年生、一つ上の男の子。剣道部の最優秀選手……だった同じ高校の先輩。運動神経抜群で、すれ違う人がみんな振り向いてしまうほど綺麗な容姿を持っているけれど、喧嘩は断らないし無口だし人とつるまないし、何を考えているかもわからないということで、先生たちからもひとつ距離を置かれていた問題児。

 

対して私は、いわゆる学校にとって都合のいい「優等生」。空手部の次期キャプテン。言われたとおりの生活を、誰にも迷惑をかけないように送ってきたおかげで、成績はそこそこいい普通の女子高生。今日みたいな嘘の早退なんてしたことのない、ちゃんとしているように見える、見せかけの人。

 

私とクラウドは、小さい頃から顔見知りだったけど、あまり喋らなかった。大きくなるまで仲良しの友達も、遊ぶ場所も全然違った。

 

そんな、関わることもないだろうと思っていた私たちが再会し、一緒にいるようになったのはいつからだっただろうか。

 

『ティファ』

 

自分の意思をしっかり持って行動するクラウドのことを、憧れの眼差しで見るようになったのは、いつから。

 

『…ティファを俺に、守らせてくれないか』

 

 

 

 

 

 

 

 

ふたりで最初に向かったのは、幸い駅の近くにあった、地元の人たちが使う古びたショッピングセンターだった。

うろちょろしたら目立つからと、ぱっと手に取った、お揃いの真っ白なTシャツと黒いスキニー。バイトをしているクラウドが全部買ってくれようとしたけれど、ちゃんと半分ずつにしたいからと強がって、私も少ないお小遣いからお金を出した。

 

そうして服を買ってすぐ、慌てて二人お手洗いに入り、何事もなかったかのような顔で着替えて外に出てくる。

 

「…似合う?」

「……うん」

 

照れくささを隠すようにふざけて聞いた質問に、クラウドは頬を少しだけ染めて頷いてくれた。

 

「…行こう」

 

制服が入り重くなった荷物を持って、私たちはまた手を繋いだ。

 

 

 

 

 

 

クラウドが私とは違う方向の未来を見ていることに気づいたのは、こっそり二人、大人に隠れて、誰にもいえない背伸びをした時間を過ごしていたときのことだったと思う。

 

一人で暮らすクラウドの部屋。はじめて体を重ねた満足感と疲労感で気を失うように眠っていた私を、夕方、そろそろ帰る時間だとクラウドが起こしてくれたとき。あたたかい腕の中、クラウドと一緒にいるんだという幸福感の裏に感じる寂しさを、私はあの日、思わず口にした。

 

『…クラウド』

『…ん?』

『……帰りたくない』

『…ティファ』

『……ずっとここにいたい。一緒にいたい』

 

帰らなきゃいけない理由はこっちにあるのに。

どうしようもないわがままを言う私に、クラウドは私から目線を逸らすことなく、返事をした。

 

『…頑張るよ』

『…何を?』

『ティファと一緒にいられるように……頑張るから』

 

だから少しだけ我慢してほしいと、クラウドは言った。そのとき私はちゃんと彼の言葉の意味も考えず頷いた。

 

クラウドの言う「少し」が、私の思う「少し」より長い時間のことだと気づいたときには、もう遅かった。クラウドはひとりで全てを決めてしまっていた。故郷を出るという彼の決意は、もはや誰にも変えることのできないものだった。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、きたきた!」

 

服を着替え終えたあと、私たちは駅に戻り、備え付けられている古びたロッカーにお財布以外の荷物……私はこっそり携帯電話さえも入れて、バスを待っていた。

 

おじいさんの言う通り、バスは二時間に一本あるかないかくらい。だけど、二人でアイスを食べながら待っているうちに時間は流れるように過ぎ、貴重なバスは「すぐ」やってきた。

 

「クラウド、いそいで」

 

のんびり歩くクラウドを急かしつつ、私たちは電光案内板に「山頂公園」と表示されているのを確認してから乗り込む。

慌てて駆け込んだ車内は、さっきの電車よりもずっと冷房が効いていて、汗をかきすぎた体には少し寒すぎるほど。ふと目に留まった二人がけの席に座れば、バスはすぐに出発し、ゆっくりと走り出した。

 

「……」

 

そっとあたりを見渡してみる。私たちの他に乗車しているのは、家族連れや年配の人たちだけ。同じくらいの年齢の人がいないことに、ほっとするような心細いような不思議な気持ちに襲われる。

 

不安なときの癖でつい隣に座ったクラウドを見上げると、彼は涼しい顔でこちらを見るだけだった。

 

「……。クラウド」

「ん?」

「……落ち着いてるね」

「…ティファが望むなら、大声で騒ぐぞ」

「ふふ……おねがい、そのままでいて」

「…わかった」

 

冗談を言ってくれるのが嬉しくて、ここが知らない土地なのをいいことに、甘えるようにクラウドの肩に頭をのせる。逞しくてしっかりしているその肩は、私を簡単に受け止めてくれる。人前じゃ絶対にこういうことはしないと思っていたのに躊躇なくできてしまうのは……旅行気分で浮かれているからなのか、それとも。

 

(……)

 

冷房で冷え切った車内。クラウドの温もりを感じながら窓の外を見た。

時間は残酷にも、あっという間に夕暮れの気配を連れてきていた。

 

 

 

 

 

 

 

天望山。このあたりに住んでいる人しか知らない、隠れた星の観測名所。

夏の期間だけ、地元の人たちとほんの少しの観光客向けに、小さな山の頂に向けた天体観測のツアーバスが出ている。私たちの住む街からは少し遠く、何故か土日はやっていないせいで、行きたいと思っていても来ることのできなかった、年頃の自分たちにとって憧れの場所。

 

 

 

働くために街を出るとクラウドに告げられたのは、春の終わりかけの頃だった。

 

最初は何を言われているのかわからず、口をぽかんと開けて話を聞いていた。都会で働くために受けていた何かの試験に合格したから、すぐに転校して仕事の準備をしたいのだと彼は言った。どうせ高校を卒業してから働くのなら来年の冬までここにいればいいと言ったけど、クラウドの意思は動かなかった。「早く独り立ちするために早く出発したい」と、ただそれだけを理由にクラウドは私を諭した。

 

 

 

クラウドにはもう、お母さんとお父さんがいない。お父さんは私たちが物心ついた頃に、そしてお母さんはクラウドが高校二年生のときに亡くなった。私がクラウドとお話をするようになってから、およそ二年後のことだった。

 

クラウドは決して愚痴や弱音を吐かなかったけれど、お金のやりくりの知識がない私でも、クラウドのこれからの生活が苦しいものになることはわかっていた。一度だけお金は大丈夫かと聞いてみたとき、彼は両親が残してくれたものがあると一言教えてくれた。だけどそれでもクラウドは黙々と打ち込んでいた部活をあっさりやめ、学校にいるのを最低限の時間にとどめ、夜遅くまでバイトをするようになっていった。

 

無知で子どもの私でもわかっている。友達が多いタイプではないとはいえ、勉強もそこそこに頑張っていたクラウドが進学ではなく仕事を選んだのには変えがたい理由がある。ここで働けばいいのに都会に行こうとすることも、きっとクラウド自身の中に大切な覚悟がある。

 

行かないで。私たちこれからどうなるの? 離れないで、そばにいて。

そんな幼稚な我儘を、一生懸命頑張るクラウドに伝えることなんて、私にはできなかった。

 

 

 

 

 

『クラウドが行く場所って、なんというかすごく……都会、なんだよね』

 

ある日の夕暮れ、一緒に下校をしていたとき、私はぽつりと呟いた。今思えば、何でもいいから明るい話題にしたかったんだと思う。気持ちを紛らわすために、悲しい気持ちを隠すために。

 

歩幅をこちらに合わせ、無言で隣を歩いていたクラウドは、私の言葉を聞いてからゆっくり返事をしてくれた。

 

『…うん。……空を見上げるのも忘れそうだ』

『どういうこと?』

『…高いビルが多いせいで、都会は空が狭い。それに……街が明るすぎて、星も全然見えないらしい』

 

寂しそうに空を見上げたクラウド。ずっと大人びた表情でいた彼がようやく覗かせた、寂しいという感情。

せめて表情を明るくしてあげたい。私にできることは何だろう。そう思ったとき脳裏に、記憶のどこかにあった天望山のことが、不思議なくらい自然に浮かんだ。

 

『……ねえ、クラウド』

『?』

『遠くに行く前に……いっしょに星、見に行きたいな』

『……、』

 

(あ……)

 

そのとき。クラウドが初めて見せてくれた、少しだけ、泣きそうな笑顔。

 

この日、嘘もろくについたことのなかった臆病な私は覚悟を決めた。

高校二年の夏の今日。クラウドの最後の登校日。すべてのひとに嘘をつき、クラウドを選ぶことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ティファ」

 

名前を呼ぶ優しい声に導かれて、沈んでいた意識を浮かび上がらせる。

眠りの中から慌てて持ち上げた頭、視界に入るのは知らない間に真っ暗になっているバスの窓の外。どうやら考え事をしているうちに、クラウドにもたれ眠ってしまっていたらしい。暗くて何もわからないけれど、バスの傾き加減から山道を上にのぼっていることくらいはわかる。

 

「…もう着くよ」

 

クラウドがそう呟いたちょうどその時、まもなく終点であることをバスの車掌さんがアナウンスする。せっかくの大切な時を睡眠時間に当ててしまい後悔する私を、時計もバスも待ってはくれない。

 

時間を取り戻そうとするように、私はもう少しだけクラウドに体を寄せた。クラウドは何も言わず、ただ強く手を握り返した。

 

 

 

 

 

 

 

バスが停車したのは森の中。どきどきしながら車を降りて空を見上げても、上手に木々がそれを隠している。

降りた人たちがぞろぞろと向かうのは公園の入場口。ここを抜けた先に、満天の星空が待っているのかと思うと、早く行きたいようなゆっくり進みたいような、どっちともつかない気持ちに包まれる。

 

公園の入り口を抜けた先。長く短い森の道。私はクラウドと手を繋いで歩いた。

始まりとも終わりとも判断のつかない一本道を踏みしめながら、私はひとり考える。この恋は、もしかすると今日、ここで終わってしまうのかもしれないということを。

 

私とクラウドとの関係は、一種の若気の至りというものなのかもしれない。いわゆる一夏の恋なのかもしれない。

 

まだ子どもの自分が、この先クラウド以外を好きにならないという保証はない。それはクラウドも同じ。都会に出て、広い世界に慣れていくうちに、彼はいつか出会うかもしれない。私よりも笑顔がかわいくて、私よりも上品な格好をして、私よりも素直で……私と一緒にいるよりもクラウドが幸せになれる素敵で優しい人に。未来なんて誰にもわからないから。そして何が起こっても、きっと誰も、悪くない。……だけど。

 

(……。だけど)

 

頭の中を整理しながら、大きなため息が出る。期待や夢なんて、抱き過ぎないほうがいいことをわかっているのに、今の私は確かに、この手を離したくないと思っている。

 

今日という日が来る前。ベッドの中一人眠るとき、私は何度も自分に言い聞かせた。

いつまでも夢の中にはいられないと、初恋は叶わないのがセオリーなのだと。

 

だけど何を言い聞かせてもだめだった。何度涙を流しても、クラウドと離れた先の未来を想像することが、私にはできなかった。

 

私を呼ぶ優しい声も、ぶっきらぼうに見えるけど誰よりも優しい心も、いつも守ってくれる広い背中も。何をとっても大切で、何をとっても愛しくて、何一つ替えがきくものではなかったから。

 

(……)

 

多分私は……理屈が全く通用しないほど、クラウドのことを好きになっていた。いつの間にかこんなにも、大切な存在になっていた。例え大人たちがこの恋を馬鹿にしたって、例え未来の自分が苦しいからやめろと私を諭したって、気持ちを曲げることのできないくらい強く、強く。

 

もしもこの恋が、本当にこの場所で終わってしまったとしても。これから紡がれていく会えない時間が、長く辛いものだとわかっていても。

 

それでもクラウドと過ごした時間を一ミリも後悔なんてできないことを、私はずっと、わかっていたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

「わあ、すごい!」

 

(……、)

 

誰とも知らない子どもの声で、意識を戻す。

駆け出しながら歓声をあげるのは、私たちよりも早足で展望台に向かっていた親子連れ。それに続いてたくさんの人たちが口を開け、空を見上げながら、星空の下に到着していく。

 

「……」

 

ようやく来た現実と向き合う時間。どきどきと喜びと、まもなく来る終わりへの寂しさを感じながら息をつく。どれだけ覚悟をしてきても、今日を迎えるまであんなにも楽しみにしていた星空に、やっぱりまだ辿り着かなくていいと思ってしまう。

 

私は何も言わず、ぎゅっとクラウドの手を握る手に力をこめる。クラウドも私の手をしっかり握り返す。

私たちはいっしょに足を踏み入れた。少なくとも今はひとりではないということを、手のひらの温度で確かめながら。

 

 

 

 

 

 

 

「………、」

 

視界いっぱいに飛び込んできた星空は、見上げただけで目が潤むほど眩しいものだった。

 

感嘆の声をあげることすら忘れて、ただその星々ひとつひとつに見入る。今すぐにでも落ちてきそうなほど一生懸命輝く光。星が連なってまるで川のように見える光景は、御伽話の中にでも迷い込んでしまったかのような神秘的な光景だった。

 

「……、綺麗だね」

「……ああ」

 

どちらからともなく手を引いて、私たちは展望台の手すりに辿り着く。夏の夜風は少し冷たかったけれど、手すりにもたれかかった私をクラウドが後ろから抱きしめてくれたから、決して寒くはなかった。

 

その体温を頼りに見上げる星空。この目の奥に残像として残ってしまえばいいと、私は瞬きもせず夜空を見つめ続ける。

 

忘れたくないから。きっともう今この瞬間から、大事な時間のカウントダウンは始まっているのだから。

 

「……。…クラウド」

「……ん?」

 

クラウドの名前を呼ぶ。後ろにいる彼の瞳を見ることができないまま。それから言葉を綴る。話せるうちに、話せることだけ。

 

「……今日、ありがとね。わがまま聞いてくれて」

「…俺の台詞だ。……ありがとう、ティファ」

「…うん。……あのね、クラウド」

「……ん?」

「…私……。…私、クラウドと出会えてよかった」

「……ティファ」

「…知らなかった気持ち、いっぱい感じられたから」

「……」

「星見て泣きそうになるなんて……今まで絶対、なかったもの」

「……、」

「…クラウドがたくさん、……たくさん、教えてくれたんだよね」

「…ティファ」

「……ありがとう、クラウド」

 

泣きそうになる、なんてうそ。

もう涙は溢れてる。とっくの昔に心は叫んでる。

 

言ってはいけない言葉と、言いたくない言葉を避けて、私の心はずっと震えている。どうすればクラウドのためになるだろうかと、知識も経験も足りていない頭で必死になって考える。

 

(…だめだな、私)

 

泣かないようにしようって思っていたのに。最後の日は笑って過ごそうって決めてたのに。クラウドのこと応援しようって、散々自分に言い聞かせてたのに。

 

やっぱり、思ってしまう。いかないでって言いかけてしまう。これ以上口を開いたら、クラウドが困るような言葉しかきっと出てこない。

 

だからお願い。何も言わずに、言葉のままを受け止めて。ちっぽけな私の心ではもう、これが限界なのだから。

 

 

 

 

「……ティファ」

 

残酷なほど優しい声に呼ばれる名前。涙が流れるこの顔で振り向く勇気のない私は、星空を見上げたまま頷き返す。

だけどクラウドはそれを許さず、私の両腕をつかみ、少し強引に自身の腕の中で、私の体の向きを変えさせた。

 

「……、」

 

星でいっぱいだった視界が急に、クラウドだけになる。真剣に私を見つめるクラウドと、ちゃんと目が合う。

 

「…ティファ……泣かないで」

「……、」

「ごめんな。…ティファを悲しませたくはなかったんだ」

 

クラウドは、優しく何度も親指で涙を拭いながら、穏やかな声で言葉を続けた。

 

「…ティファ。そばにいられなくて、ごめん」

「……、うん」

「……本当は……何も考えず、何の心配もせず、ずっとティファの隣で、ティファと一緒にいられたらいいと思っていた。不安なことを忘れて、そうできたらどんなに幸せだろうと思っていた」

 

初めて聞く本音。心はゆらりと揺れる。

 

「だけど……生きるのは、そんなに簡単な話じゃなくて」

「……うん」

「……親もいなくて、大人じゃない俺には、できることに限界があった。こうやって、ちょっと離れたところにティファを連れ出して、無事に帰してやるくらいが精一杯なんだ。今の俺じゃ……ティファを満足に守ってやることすら、できない」

「……、もう十分だよ」

「…ありがとう、ティファ。でも俺は……もっと胸をはって、ティファを守れるような人間になりたい。そのために大人になって、早く自立したいんだ。だから……」

 

紡がれる言葉をひとつひとつ聞きながら、いつか二人きりで過ごしたときの記憶を思い出す。あのときはわからなかったけど、クラウドは確かに言っていた。頑張るから、一緒にいられるように頑張るからって。

クラウドはずっとずっと前から、未来をみていたんだ。何も考えていない私の代わりにひとりで、先を見据えてたんだ。

一緒にいようと……してくれていたんだ。

 

(…クラウド)

 

「…ティファ」

「ん…?」

「俺は……今の俺には、待っていろとは言えない。いつになるかわからないし、出て行くのもあくまで俺の問題だから……俺のせいで、ティファが苦しむのは本望じゃない」

「…クラウド……」

「……でも、もし。……もし、ティファとまた会えるなら。……こうして一緒にいられる日が来るなら、俺は……」

 

言葉を選びながら大切に伝えてくれる、クラウドの気持ちを受け止める。

 

苦しそうなその表情を見つめながら、私はようやく悟る。不安なのは私だけじゃない。むしろこれから孤独を感じなければいけないのはクラウドだ。それをあえて選んだ勇気を、それを伝えてくれた勇気を、私は考えられていなかった。クラウドも持っていた一緒にいたいという気持ちに、ちゃんと寄り添えていなかった。

 

ごめんね。自分の気持ちのことで精一杯で。ぽろぽろ流れて止まらない涙に違う色が混ざる。

だけど、私たちが決して違う未来を見てるわけではないことを知った途端、心にわずかな勇気が灯るのがわかった。独りよがりだと思っていた願いが、ゆっくり幻から姿を変える。

 

「…ねえ、クラウド」

「……?」

「…約束、しない?」

 

ゆらりと星空のような瞳が揺れる。私はそのクラウドの瞳に想いを託す。

 

「…約束?」

「…うん。あのね……これから私たちが離れ離れになって、それぞれの場所で頑張って……」

「……うん」

「それでも、それでもだめなとき……ひとりで耐えきれなくなったとき」

「……」

「クラウド……助けに来て。私も、クラウドを助けに行くから」

 

しっかりクラウドの目を見て伝える、今の私にできるいちばんのお願い。届け届けと願いを込めて見つめれば、目を見開いていたクラウドはやがてそれを細め、大きく長い息をつきながら私をゆっくり抱きしめた。

 

(……あ、)

 

クラウドの肩越しに目が合う、私たちをずっと見守ってくれている星空。

 

まるでこのタイミングを待ってくれていたかのように星空を流れる一瞬の光。途端に心がすっと柔らかくなる。この約束に形がなくたって、大丈夫だという温もりに包まれる。

 

「…ティファ」

「…うん」

「…ありがとう」

「……」

「…約束する。必ず助けに行く」

「……うん。…信じてる」

 

(…これでいいんだ)

 

これが、今私たちができる精一杯の約束。何もかもが未知である未来で、こんなちっぽけな私でも願うことが許されそうな、小さくて大切な約束。

 

私たちは背伸びなんかせずに、この満点の星空の下、等身大の想いを誓う。待ってるとは言えない。迎えにきてくれるなんて保証はできない。それでも……それでも、守りたいという気持ちだけは絶対に変わることがないから。クラウドを大切に想うことだけは、変えようがないから。

 

この約束があれば、きっと必ず、またどこかで巡り会えるはずだから。

 

 

 

 

 

 

闇に浸かる夜。私たちはたくさんの星に見守られて山を降りた。

 

駅に着いた頃、クラウドの腕時計を勝手に覗いて見た時間は夜の十時。そろそろエアリスに協力してもらっていた嘘がバレているのではないかという嫌な予感は的中し、ロッカーに預けていた携帯は、何十件もの着信を残して現在進行形で震えていた。

 

何をどこから説明しようと体を硬らせていたけれど、クラウドはその携帯を躊躇なく取り、予想通り怒鳴り続けるパパに謝り続けた。終電を待ちながら受けてくれたその長電話を終えたクラウドは、絶対に大丈夫じゃないのに「だいじょうぶだよ」と笑った。それから続けた。「ティファを家に帰すまでは一緒にいさせてくれるらしい」と。やけに楽しそうなその笑顔は、これからのことを思うと、これくらいどうってことないとでも言うように明るく、私の心を柔らかくした。

 

 

 

 

私たちはいっしょに帰った。手を繋いで電車に乗った。手を繋いで電車を降りた。

そして手を繋いで歩いた。さっきの半分も見えなくなった夜空の下を。小さな声で話して、小さな声で笑い合いながら。

 

やがて私たちが離れ、ばいばいと手を振り合うときが来ても。

私は少しも怖くはなかった。夏空の下、たくさんの光が灯るこの星で、見失うことなどありえない奇跡のような瞬きを、見つけることができたのだから。

 

 

 

 

 

サイダーとダイアモンド

 

 

(きみを見つけた夏の日)

 

 


fin,