こころが苦しくなったきっかけは、どちらかだ。
少し肌寒くなってきた季節の変化に気付いた夕時か、街中で恋人同士らしき二人とすれ違ったあの瞬間か。
遠方の配達先、遅くに戻った古宿。あてがわれた部屋が上階で、窓があるのも嫌がらせに感じる。俺は、いつもならさっさと倒れこむベッドを素通りして、まっすぐにその窓のそばに歩いた。
(……)
窓の外から夜空を見上げると、思っていた通り、星々と月がこちらを見下ろしている。
その光景は、俺の背中を押しているのか、どこかに引っ張り戻そうとしているのかわからない。
ただその景色が、さっきふと現れてから今の今も離れない……俺の持っている言葉では言い表せない息苦しさに、拍車をかけているのは間違いがなかった。
「……」
脳が指令を出す前に、心が導くように、手元の携帯に目をやる。
月灯りとは違う明るさをもって画面が光る。眩しさに少し目を細めながら、指は勝手に着信履歴に移る。ここから辿るのが一番早いことを、俺は知っている。
(今、時間……)
少し、遅すぎるだろうか。明らかにもう子どもたちは確実に寝ている時間だ。店にかけて起こしてしまったら悪い。
履歴を少し遡る。店の名前と客の名前の間に、今、顔がみたくて仕方のない人の名前が現れる。
「……」
俺はもう一度空を見上げて考える。
彼女も、もう寝ているかもしれない。疲れているかもしれない。普段あまりこちらから掛けないから、驚くかもしれない。色々、考える。
でも…胸の中にどんどん溜まっていく苦しみが、いわゆる切なさのようなものが……声が聞きたいという、俺の中にふと生まれてしまったどうしようもない願望が、指を動かす。
その名前を、押す。
「………」
はあ、と自分自身に大きくため息をつきながら電話を耳に当てる。
出て欲しいような、出て欲しくないような。何度も鳴る呼び出し音が、苦しみのようなものを膨らませる。
「……」
息をするのも、辛くなる。
(……寝ているか)
聞こえてくる何コール目かもわからなくなった頃。
流石に待ち続けるのも悪いと思い、耳から携帯を離そうとした、とき。
ぷつ、と、何かがつながった音がした。
(……、)
『…クラウド?』
確かに、待っていたはずなのに。彼女の声を聞くために電話をかけたはずなのに。
その声が耳に届いたとき…情けないぐらいに強く、心の中で何かが咲くような感覚が、痛いほどに俺を襲った。
(……ティファ)
「……」
『…あれ、クラウド?いる?』
「…ああ」
『もう、びっくりした』
最初、全く声が出なかった。嬉しさなのか何なのかわからない感情は、思考回路さえも一瞬停止させた。
彼女に聞こえないように気をつけながら、大きく息をつき、胸の中のものを吐き出す。
ティファは電話に出てくれた。その声を聞かせてくれた。……それだけで、それだけで。
『どうしたの? …お仕事終わった?』
「うん……今終わった」
『そう、お疲れさまでした』
「…ああ」
『…クラウド眠いの? ぼーっとしてるみたい』
「…うん」
『ふふ……』
本当に情けないぐらい、言葉が出てこない。自分の声はいいから、ただティファの声を聞きたい。何度も吐き出すため息が震えている。安心なのか、喜びなのか、沢山の感情が入り混じる。
ティファに顔を見せずに済んでよかった。おそらく今、ひどく女々しい顔をしているから。
『珍しいね、電話くれるなんて』
「…そうか」
『何かあった?』
「いや、何も」
『そっか、よかった。悪いことでもあったのかと思っちゃった』
(……)
言いことも聞きたいことも、伝えなきゃいけないことも恐らく山のようにある。だけど、返事をするのが精一杯で。
『…クラウド?』
「…うん」
『もう、本当にぼーっとしてるんだから……疲れた?』
「…そうかもしれない」
『そうだよね……こんな時間までお仕事、疲れるよね』
「ティファは……」
『ん?』
「…ティファは今、何してる」
『私?少し前にシャワー浴びてきたところ』
「…そうか」
『髪乾かしてたら、クラウドから着信があるからびっくりしちゃった』
「…すまない」
『ううん。…すごく嬉しい』
「……、」
(嬉しいのは多分、ティファより、)
「…ティファ」
『うん?なあに』
「……。…ティファ」
『ふふ……なんですか、クラウドくん』
「…」
『…帰りたくなっちゃった?』
「……うん」
『……。…寂しくなっちゃった?』
「……、ん」
『……そっか。…私も、早く帰ってきて欲しいなあ』
(……)
電話を持ち直して、しっかり耳に当てる。
目は、閉じた。……何の景色もいらなかった。
「……ティファ」
『うん。クラウド』
「…。……顔がみたい」
『…、』
俺は……ただ。
「………会いたい」
どうしようも、ないほどに。
『…うん。…うん……クラウド』
「……」
『…私も……私も、会いたい』
「……」
『……気をつけて帰ってきてね』
「…ああ」
『……。…クラウド』
「…ん?」
『ありがとう。それと……』
「……?」
『…ううん。……帰ってきたら、伝える』
「…わかった」
『…おやすみなさい』
「おやすみ……ティファ」
(……)
電話は、切れる。俺はもう一度夜空を見上げた。
大きくつき、吸い込んだ息は、さっきと同じはずなのに、全く違うものとして、俺を包んだ。
ひとりは、ひとりではなかった。
夜に星
fin,