甘い匂いに誘われて意識をゆっくり取り戻す。
花の匂いか果物か何かか。嗅ぎ慣れないと思いながら、いつの間にか閉じていた瞼を開ける。途端に眩しさに襲われたのは、寝室のベッドに仰向けで寝ているからだろう。
耐えられない眩しさにもう一度目を閉じる。それから考える。何の匂いだ。少なくとも俺の記憶にある匂いではない。……匂いのことはともかく、今何時だ。俺はいつここで寝落ちた。
そうやって順を追って、考えなければいけないことを思い出していたとき。
「…クラウド?」
「…!」
俺の名前を呼ぶティファの声に、閉じた瞼を慌てて開ける。寝ぼけているのか、ティファが同じ空間にいたことにすら気づいていなかったらしい。
すぐに上体を起こす。慌てる必要は微塵もないが、ティファに気づけていなかったことがショックで思わず起きて上がってしまった。おかしい。いつもなら眠っていてもティファの気配や匂いに気づいて起きられるはずなのに。……匂い?
(…ティファの匂いじゃないから?)
「わっ、びっくりした」
「ティファ、」
「お、おはよう、クラウド。もう夜だけど…」
「……ティファ?」
「ん?」
俺がもう一度名前を呼び直したのは、視界にはいったティファがいつもの格好をしていなかったからだった。
ドレッサーの前に座って、何かの準備をしている最中らしいティファ。身につけているのは見慣れない……いや、かなり前に、一緒に新作だか何だかの劇を観に行ったときに着ていた、紫がかった赤のドレス。きょとんとするティファの手には同じく見慣れない口紅。よくよく見ると……ティファは、化粧をしている。
(…ティファ)
「……クラウド?」
「………綺麗だ」
「え?」
「いや……どうした、その格好」
「へ? あ、これ? ……覚えてる?」
「……劇の、ときの」
「ふふ、正解」
はにかむティファはかわいいが、今は正直それどころではない。どうしてその格好をしているのかが知りたい。
寝ぼけた頭を叩き起こしながら、ベッドの端に腰掛けティファに向き直る。ティファは普段からあまり化粧をすることがないから、余計この姿は新鮮だ。正直俺は、ティファに化粧は必要ないと思っているが……それでも。
(…何でこんなに綺麗になるんだ)
「……クラウド?」
「…。…何でドレスなんか着てる?」
「あ……ほら、この間言ったでしょ? 常連さんの誕生日会があるの」
「誕生日会?」
「いつも来てくれてるお客さんがね、おうちでちょっと豪華なパーティーするんだって。それに呼ばれちゃって」
「……そんなこと言ってたか」
「ふふ、ちゃんと言ったよ」
「…一人でいくのか?」
「? うん。クラウドのこと誘ったけど、この間断ってたでしょ。こういうところは苦手だって」
「………」
「…忘れちゃった?」
(……断った気が、しなくもない)
おかしそうに笑ってくれるティファに申し訳なさを感じ、両太ももに肘をついて項垂れる。ティファがこんなに綺麗になる一大事なのに、どうして想像が至らなかった。過去の、おそらく深く考えないまま返事をした自分を呪う。
項垂れた頭をあげると、ティファはもう大方準備ができたのかこちらに体を向けてくれていた。どこか上機嫌に見えるのは、その常連と親しいからなのか、化粧が楽しかったからなのか、俺にはわからないけれど。
「……」
「……クラウド?」
立ち上がって、ティファのすぐ側まで歩く。
移動するたびに香る、俺を眠りから呼び起こした香り。それが香水か化粧品の匂いだと理解しながら、ティファの目の前に立ち見下ろす。
不思議そうに俺を見上げるティファ。いつもより目が大きく見えるのも、唇の色がいいのも、頬が染まって見えるのも全部化粧のせいなのか。……だめだ。普段のティファが一番だってわかってるのに、どうしたって。
「……まだ綺麗になるのか…ティファは」
「え…?」
柔らかい頬に手を添える。ティファは俺の言葉の意味を理解したのか、確かに自身で頬を赤く染め、微笑んだ。
「ふふ……ちょっと時間があったから、久しぶりにお化粧しちゃった」
「……」
「…変、かな?」
「……変なわけないだろ」
「…そう?」
「…こんな綺麗な……誰にもみせたくない」
「もう……普通逆でしょ」
「俺だけが見れたらいい」
「…クラウド、わがままだ」
「……知ってる」
「ふふ…、ん……」
身勝手な我儘を笑って受け入れてくれるティファに、身をかがめて口付けする。甘ったるい匂いが強くて頭の中がぼうとする。甘い。味なんてするわけがないのはわかっているが、それでもティファは甘い。
30秒も満たない口付け。キスの音を残して唇を少し離せば、ティファはとろんとした表情のまま俺の唇を見つめて、笑みをこぼした。
「…、クラウドにもついちゃった」
「…?」
「…くちべに。ふふ…赤くなっちゃったね」
ティファが親指で、赤くなっているらしい俺の唇を拭う。俺はされるがままになりながら、至近距離で綺麗なティファをじっと見つめる。取れたと呟くティファにもう一度キスをすれば、笑いながら「意味がない」と怒られる。
そんなことも構わず俺はキスを続ける。行かせたくなくて。ここにいてほしくて。俺の目の前だけにいてほしくて。
「…ん、…」
「…ティファ……」
「……、ま、待ってクラウド」
「……行くな」
「…だーめ……行かないと」
「……どうしても?」
「……。…そんな顔したってだめだからね」
「…本当に?」
「…………ほんとに」
あと何度か押せばティファは折れる。わかってはいるが、必死に抵抗しようとしているティファがかわいくて、かわいそうで、つい意地悪をやめてしまった。ティファが客を大事にしてるのも……ちゃんと知っているから。
ふうと息をつき、ようやくかがめていた身を起こす。ティファはどこか物足りないような表情のまま再度俺を見上げた。……俺のせいではあるが、今のティファは追加で色気を纏ってしまっている。
(……やっぱり、だめだ)
このまま一人で行かせるのは。
「……ティファ」
「ん…?」
「…俺も行く」
「え! 一緒に行ってくれるの?」
「……ああ」
「やった! すごく嬉しい。ありがとうクラウド」
「…うん」
「服、どうしよっか。……あ、私と一緒で観劇したときのスーツがいいかな?」
「…ああ」
「嬉しい。クラウドのスーツかっこいいから」
「…ティファが嬉しいならよかった」
「ふふ…何それ」
目に見えて更に機嫌をよくするティファ。俺が、美しくもかわいくも何ともない独占欲だけを原動力に、一緒に出かけようとしていることなんてきっと知らないんだろう。知らないままでいい。ティファは知らなくてもいい。
上機嫌のまま立ち上がり、ティファは俺の手を引き歩き出す。俺はその華奢な背中を見つめながら、一時間で切り上げてこの部屋に戻ると一人勝手に決意した。甘い匂いが残るうちに。熱が、冷めてしまわぬうちに。
PRE SWEET
fin,