自分の体の一部を捧げることで、何もなかったことになるのなら、いつだってそうした。自分が何かをすることで、何もかもが戻ってくるのなら、何だってする気になれた。
失ったものが戻らないなんていう、救いようのない世界をつくったのはいったい誰だ。どんな補正をかけても、忘れようとしても、たとえ俺自身が本当に記憶を失っても、癒えることのない傷を負うことをこの世界に許したのは誰だ。
間に合わなかった。俺はいつも、何もかも、間に合わなかった。あと数秒早ければ、俺にもっと力があれば、もっと頭が働けば、もっと冷静になることができていれば。そんな「もしも」を繰り返したってもうどうしようもない。終わったんだ。その瞬間は、あの時間はもう過ぎ去った。俺は間に合わなかった。ただそれだけのことだった。
俺は手を伸ばしただろうか。せめて、なんとかしようと両手を思い切り、伸ばすことができていただろうか。
俺は声を出しただろうか。たとえ体が追いつかなくても、たとえ間に合わないことがわかっていたとしても、出来る限りの、動かせる限りの物を使って、止めようとしただろうか。
俺は一生懸命だっただろうか。頭を本当に、百パーセント動かせていただろうか。余計なことを考えて、自分で足かせをつくってはいなかっただろうか。
本当にあれは仕方のないことだったんだろうか。本当にあの人は、あの人たちは、いなくならなければならなかったんだろうか。本当に、そういう運命だったんだろうか。その運命を、運命としてあることを許したのは、他の誰でもない……ただ無力で、いや、止める力を持っていたはずなのに何もしなかった、俺自身なのではないだろうか。
あの人はあたたかかった。うつむきがちな俺の顔を覗き込んで、俺の分まで笑ってくれていた。
あの人はやさしかった。俺がどんなに後ろ向きなことを言っても、それを全て覆すような言葉を与えてくれた。
あの人は明るかった。どう考えたって真っ暗闇の状況を、何事もなかったかのように照らしてみせた。
あの人は強かった。絶望の淵から笑って見せた。自分の何もかもを顧みず、自分が生きることができたかもしれない未来を……自分が笑っていたかもしれない時間を、惜しみなく俺たちに差し出した。
あの人は生きていた。
あの人は、ここで、この場所で、確かに、生きていたのに。
何も汚れてはいない、汚すことすらできなかった自分の両の手を見つめた。きれいなままのその手は、抱えたものを抱え続けることすらできず、ぼろぼろと、その指と指の間からたくさんのことをこぼれ落としてきた。
掴んだはずの手を、掴んだままでいられなかった。握り締めたはずの手を、いとも簡単に離してしまった。
忘れないと誓ったはずの記憶を、するりと頭から手放した。大事にすると決めたものを、たやすく心の外へと放り出した。
俺は、いったい何を勘違いしていたんだろう。いったい何を守れると思ったんだろう。いったい誰を、幸せにできると思ったんだろう。
どうして、幸せになりたいなんてことを、考えてしまったんだろう。
裏切って、見捨てて、知らないふりをしてきたこの手が、そんなこの手が、今更いったい何を守れるというのだろうか。何も守る勇気のないこの手が、いったい何を、誰を、守りきれるというのだろうか。
失ったことしかないこの手が、どうやって、大切な人を幸せにできるというのだろうか。
どの口が。どの手が。どの心が。どの、にんげんが。
痛い、と、からだのどこかが叫んだ。
その言葉が口から出ることはなかった。その言葉を口にする資格を、俺はとうの昔にもう、失っていた。
ノー・タイトル
fin,