おやすみ、と伝えるつもりが、無意識に名前を呼んでしまっていた。
名前を呼ばれたのは一階から階段を上ってきていたティファ。名前を呼んだのは、少し作業をしようと仕事部屋に入りかけていた俺。名を呼ばれた人がうつむいていた顔をあげる。その表情にやはり元気がないことを確認してから、俺は思わず安堵の息をつく。名前を呼んでよかった、と。
「…クラウド」
さっき確かに一人ため息をついていた彼女は、こちらを見るなり笑顔を作って見せる。それが作り笑顔かどうか見破ることは、もはや俺にとって全く難しいことではない。
(…何かあったな)
「…おつかれさま。もう寝るの?」
「いや、まだ寝るつもりはない」
「そう……早く寝たほうがいいよ。最近夜遅いでしょ」
相変わらず、自分の苦しみを棚にあげるのが得意なティファがこちらの心配をする。
でも今日はその作戦にのる俺ではない。……甘やかされるのは、今は俺ではない。
寝るつもりも、ティファのもとを離れるつもりもないことを伝えるために、少し大袈裟に開けかけていた部屋の扉を閉める。ティファは不思議そうにこちらをみて、小さく首をかしげた。
「…?」
「ティファ」
「ん?」
「…どうした?」
「え、」
ティファが図星をつかれたような顔になって固まる。作り笑顔を剥がすことには成功したようだった。
そのまま俺は足の向きを、階段近くでぽかんと佇むティファに向ける。
「…何かあったか」
「……どうして?」
「元気がないから」
「…わかるの?」
「…まあな」
ずっと一緒にいるからな、という言葉はなんとなく心の中にしまった。
ティファは、困った笑顔を浮かべ何か言おうとして、すぐに俯いてしまう。胸元で自身の手を痛いんじゃないかと思うぐらいに握るのは、言いたいことがあるけど言えないときにするティファの癖のようなものだった。
何かがあったのは間違いないと確信し、一歩ティファに向かって踏み出す。固く閉ざされた彼女の手を解いて、指を握り引き寄せる。引き寄せるのは俺自身に、というより、ティファがさっきまでいた一階の店へ続く階段に。
「ティファ」
そして、きょとんとこちらを見る大切な人に、できるだけ優しい声をかけた。
「少し、飲もう」
「わぁ、ありがとう」
ティファが明るい声を出したのは、一階のカウンターで、決して見てくれがいいとは言えない酒の氷割りを出してやったとき。ティファと同じ材料を使って、ティファがいつもやっているのを真似たつもりなのに、同じものが出来上がらないことを不思議に思いつつ、彼女の笑顔にうなずく。彼女はそんな……見てくれなんて、何も気にしていないように見えた。
「……うまいかどうかはわからないが」
「ふふ…おいしいよ、きっと」
グラスを頬に寄せてはにかむ彼女を見て、思わず頬を緩ませる。そして自分にもティファと同じものを用意しキッチンを離れ、彼女の座るカウンター席の隣に腰を下ろした。
「…ん」
「乾杯」
控えめにグラス同士を合わせる。静かな夜にふさわしい控えめな音が響く。
俺はティファがそれを確かに口にしたのを確認してから、自分も少し、アルコールを喉に通した。
「うん、おいしい」
「…本当か?」
「本当だよ。プロが言うんだから、自信持って」
なぜか俺が励まされていることをおかしく思いながら、とりあえず頷く。
ティファは楽しんでくれている。それでもやはり、ふとした瞬間に目線をすぐ下におろしてしまうのを見逃すこともできず……俺は彼女の様子を伺いながら声をかけた。
「……それで?」
「…」
「何があった」
ティファが一度、こちらを見る。それから眉を下げたまま微笑んで見せる。
どうにか安心して欲しくて……ここはもう、悲しい顔をする場所ではないということを伝えたくて、腕を伸ばし頭をできるだけ優しく撫でてやる。
そうすればティファは幾分か表情を和らげてくれた。
「……聞いてくれるの? つまらないけど…」
「…聞く。何でも」
ティファが、小さくありがとうと呟く。
それから少し間を置いたあとに…重くなっていたであろう口を開けてくれた。
「……あのね」
「…うん」
「……失敗しちゃって。…料理」
「…料理?」
「うん。……お客さんに出した料理」
(……営業中のことか)
ティファがどうしてここまで落ち込んでいるのか、何となく察しがついた。
彼女が本当に苦しむ原因の多くが、誰かを傷つけてしまったときや、迷惑をかけたと思っているときにあるから。ティファは……本当に、優しいから。
「……ティファの料理を失敗だと思ったことはないが」
「…そう言ってくれるの、クラウドだけだよ」
「そんなことない。…それに、本当のことを言ってる」
「…ありがとう。でもね…だめだったんだ、今日は本当に」
ぶらぶらと、ティファが机の下で足を遊ばせる。
何があったとしても大丈夫だと……今すぐにでも伝えたい気持ちではあったが、とりあえずまだ話を聞こうと思い耳を傾けた。
「…言われちゃったんだ。おいしくないって」
「……どこのどいつだ」
「もう、怒らないで。……あとで味見したら、本当に美味しくなかったの」
「……」
「…思いきり調味料間違っちゃってたみたい……ぼーっとしてたのかな。自分でも、間違えるはずないって思ってた料理だったから、なんだか何重にもショックで」
「…ティファ」
「それに……あのお客さん、もう来てくれないんだろうなって…。ちゃんとおいしいもの、食べてもらいたかったって思ったらね、どんどん落ち込んじゃって」
「……」
「……。それで俯いてたら、クラウドに見つかっちゃった。えへへ…」
笑わなくていいのに、ティファは無理矢理笑ってみせる。その強ばる笑顔を見て、彼女が感じている痛みの度合いがわかった。……本当にショックだったんだろう。そんな暴言に近い感想を言われて嬉しい人間がいるわけがない。ましてや喜んでもらおうと思ってやったことが裏目に出たとなると、色々と鈍感な自分でさえその痛みは想像がつく。
改めて、声をかけてよかったと思った。このまま放っておけばティファは悩みを自分だけで処理し、解決しようとしてしまっただろうから。
(それは……とても苦しいし、寂しい)
「……確かに辛いな」
「…うん。……私が悪いんだけどね」
「わざとじゃないんだろ。そんなに自分を責めなくていい」
「……うん」
(ティファがわざと、人を傷つけるようなことをするはずがないが…)
きっとわざとかそうでないかなんて、関係ないんだろう。相手が傷ついたということだけが、ティファにとって重要なんだろう。
この優しい人へ乱暴な言葉を浴びせたどこかの人間に、つい抱いてしまう個人的な怒りは置いておくとして…俺は、話を聞きながら何となく考えていた解決策を口にしようと思った。
「…で、どこのどいつだ」
「…まさか、何かしようとしてる? だ、だめだよ、喧嘩とか…」
「しない。ティファに迷惑がかかることはしないから」
「…。……どうして知りたいの?」
「…少し考えがあるんだ」
「考え?」
「うん。…だから信じてほしい」
不安と悲しみの残像で揺れるティファの瞳を見つめて、そう言う。
ティファはしばらく俺の目を見つめ返していたけれど……少しだけ微笑んで、小さく頷いてくれた。
「……わかった」
「……」
「…クラウド、知ってるかな。ここの通りを西にずっと行ったところにある、大きなお家…」
「………ああ、あの家か」
「わかる?」
「うん。この辺じゃかなり裕福なとこだよな? よく配達の依頼がある」
「そうなんだ。……そこの、お嬢さんなんだけど」
「…なるほど」
「…いいところのお嬢さんだから、単に舌に合わなかっただけなのかなって最初は思ったんだけどね…」
そう言ってさらに俯くティファの背中を慰めるように撫でながら、脳裏に浮かべるその家の娘の顔。
何度か会話はしたことはある。金持ちのところの人間、という雰囲気はあるものの、変なクセもなく話が通じない相手ではなかった。
(……まあ、あの女なら、なんとかなるか)
「………ティファ」
「…?」
「頼みがあるんだが」
「…なぁに?」
「弁当を作って欲しい」
「…お弁当?」
「うん。……来週の月曜に」
「いいけど……どうして、また」
不思議そうにこちらをみるティファへ、言葉を続ける。
「…配達が入ってた気がする。来週、その家に」
「え…そうなの?」
「あとでもう一度確認するが…おそらく。それでその日に、ティファの料理も届けようと思う」
「…料理…あ……それで、お弁当?」
「うん。配達に行けば大体、あそこの娘が荷物を受け取るから……そのときに渡せる」
「……」
「それで…知ってもらおう。本当は、ティファの料理が美味いこと」
「…クラウド」
俺の名前を呟くティファの表情にわずかだが、あたたかさが戻ったのがわかった。それに、隠れて心の中、ほっとする。
「……すごく、…すごく嬉しい。でも、いいの? …クラウドにまで迷惑かけちゃう」
「別に、かからない」
「……もしそれで、その人が気を悪くしたら…クラウドも、お客さんが減っちゃったり…」
「ああ…そういうことなら気にしなくていい。……詫びの気持ちすら通じないなら、俺も無理に客として留めておくつもりもない」
「……」
「それに…あの客なら大丈夫だと思う。……きっとわかってくれる」
「……そうかな?」
「うん」
ティファが一度、何かを考えるように俯く。それから数秒後すぐ顔をあげて、決意したような顔つきで俺に頷いてくれた。
「……わかった。…お願いしていい?」
「ああ」
「ありがとう、クラウド」
「…うん。……ちゃんと伝えられるように頑張るから…下手なりに」
「ふふ…おしゃべり、下手なんかじゃないよ、クラウドは」
「……」
「…いつも、言葉でも、私を元気付けてくれるもの」
「……それができていたらいいんだが」
「十分、できてる」
そう言って笑ってくれる彼女に、微笑み返しながら思う。ティファが十分だと感じてくれている、俺がティファに与えてこれたのかもしれない元気は……まだ、ティファにもらった量の百分の一にも満たないということを。
ティファはよく言う。与えてもらってばかりだと。そして俺もよく思う。与えてもらって、ばかりだと。
ティファ以外の人間に聞けば、口を揃えて、たくさんを与えているのは俺よりも彼女の方だと言うに違いないが……それでもきっと、これはお互いに、永遠に譲り合うことがないのだろうと思う。それは、俺の方がティファを大事に想っているといくら伝えても、彼女がそれを受け入れないのと同じように。
どれだけ尽くしても、尽くしきれない。どれだけ感謝しても、感謝しきれない。
貰った分、返したいと思ってしまう。これまで貰った元気を、いざというとき、ティファが元気のないとき励ますために…そばにいるために、使いたいと思ってしまう。
(だから……ティファ)
いいんだ。もっと頼って欲しいんだ。ティファにできることなら、何でもしてやりたいんだ。
ティファのためなら、俺は……。
「…クラウド」
「…?」
ひとり考え込んでいたら、右肩にティファの体重をほんの少し感じた。身を預けてくれた彼女は、俺の隣でこっそり微笑みながら呟く。
「……私、クラウドがいてくれてよかったって…毎日思ってるよ」
「……、」
「…本当にありがとう」
そう、嬉しそうに言う人へ、それはこちらの台詞だと……言いかけてやめた。その代わりに、できるだけ優しくティファの肩を抱き寄せた。
もう、忘れたくないと思った。
頼られる喜びも、頼ることができる人が側にいる意味も……ひとりではないことも。
二本道
(ぼくたちは、寄り添うことができるから)
fin,