トントントンとどこからか漏れる水が、着地する音だけが響く洗面所。ドライヤーを止めた直後に聞こえ始めた水音は、まるで心臓の鼓動のそれ。気づかないふりをしていた私の本当の心臓音を、強調させるように鳴っている。
深く息をつきながら、まっすぐ目の前の鏡に映る自分と目を合わせる。いつもの倍入念に梳かした髪の毛に、いつもの倍丁寧に洗った体。幸い顔のむくみも酷くはないし、入浴後の肌の手入れもぬかりなく行った。
「……よし」
ひとりでそう呟く姿は、まるで戦いに行く戦士のよう。持っているものの中で比較的女の子っぽいデザインのTシャツとホットパンツを履いて、最後の身だしなみチェックを行う。肌の手入れもした。歯も磨いた。ついでに爪を切ってあるかどうかもちゃんと確認した。そんなことを延々続けながら、体の中からぽろっと外に出てきそうなくらいに暴れている心臓を、深呼吸で落ち着かせる。
この夜の未来はなにもかも、クラウドの一言でころりと色を変えてしまった。
物言いたげな様子の彼と遭遇したのは、マリンを寝かしつけ、シャワーを浴びようと思っていたとき。どうやらクラウドは自分の部屋の前で、私がマリンの眠る部屋から出てくるのを待っていたようだった。
おやすみの挨拶待ちかな、と呑気なことを考えていたのはおそらく私だけ。名前を呼んで笑顔を向けても微笑み返してくれることもなく、クラウドはどこか苦しそうにまっすぐ私を見つめている。
どうしたんだろう。何かあったのかな。クラウドが躊躇なく私の腕を引き、抱き寄せたのは、一人勝手にそんな不安を覚えた直後のことだった。
「…っ、わ」
文字通り瞬きをする間にクラウドの腕に閉じ込められる体。もうシャワーを浴びたのか、ふわりと感じる同じだけど違う石鹸の香り。どきどきどきと、血が身体中を急スピードで駆けまわる。この逞しい腕に抱きしめられるのも、厚い胸に頬を寄せるのも、私はまだ口が避けても「慣れた」とは言えないから。
「……ティファ」
だけどクラウドは、そうやって緊張か何かで熱くなっていく私のことを置き去りに、とどめとばかりに耳元で囁いた。
「は、はい」
「………今夜、いいか」
「え……」
ぐるぐると回り動く目線。私の背中を、意味を持って撫でるクラウドの熱い手のひら。その熱から感じるクラウドの、触りたいという気持ち。
そこまできてようやく経験不足の私の合点がいく。何がいいのか。クラウドは私に、何の許可を求めているのか。
そう……これはいわゆる。
(……お誘いだ)
「……あ、」
「……」
「え、えっと……」
「…うん」
「……その、シャワー浴びてからでもいい……?」
「…ああ」
「…じ、じゃあ……いいよ」
シャワーをおねだりしたのは、本当に浴びたかったのはもちろんのこと、あまりにたかぶりすぎているこの心臓を落ち着かせる時間稼ぎのためだった。
声を絞り出すように出した許可。今真っ赤だから見ないで欲しいと願った直後に、クラウドに覗き込まれる顔。頬にキスをもらった後、おそるおそる上目で見た彼は、正直他の人には見せられないほど色気の混じった表情をしていた。
「……部屋で待ってる」
急展開に思考が追いつかず固まる私に気付かないまま、クラウドは何事もなかったかのように離れ、静かに自室に戻っていった。そうか、お部屋ってクラウドの部屋のことかと、硬直しながら頭の中の能天気な自分が呟く。わかったと返事をしてみたけれど、返事を聞くべき人はもうここにはいない。
そこからはもう、ほとんど記憶がなかった。シャワーを浴びて服を着て、鏡の中の自分を見つめるときまでは。
「……」
顔がこわばっていく自分と睨めっこをはじめてからどれくらいになるだろう。どれだけ深呼吸をしても解けることのない緊張。だけどこんなことをしているうちに、刻一刻と時間は過ぎていく。クラウドは部屋で待っている。私が戻ってくるのを待っている。
「……行かなきゃ」
再度、自分を奮い立たせるために呟く言葉。両頬を両手でぱんと叩いて気合いを入れる。これから大好きな人に見てもらいにいくというのに、戦いに行くときのような怖い顔をしてしまっている気がするけれど、もうどうしようもない。
控え室である洗面所を出て、階下にあるクラウドの部屋を見つめる。意を決して一段ずつ下る階段。考えても仕方ないことをぐるぐる考える。
部屋に入ったあとどうすればいいんだっけ。まずどこに座るべき? 何の話をはじめるべき? 電気はいつ消せばいいのかな。クラウドに、何をどこまで頼ればいいのかな。
ああ、このまま自分の部屋に戻って眠れたらどれだけ気持ちが楽だろう。緊張に勝てるかな。うまくできるかな。硬直しすぎてクラウドに呆れられたりしないかな。
嬉しいよっていう気持ち、上手に表現できるかな。
「……クラウド、お待たせ」
三度のノックのあと震える声を抑え、部屋の主の名前を呼んだ。
その数秒後にゆっくり開かれる扉。開けてくれたのは、こうして再会するまでにかなりの時間を要した大切な人。
「…いや。逆に急かしてしまっていたらすまない」
「う、ううん! それは大丈夫」
「…ならよかった。……部屋、入るか」
「は、はい……」
(はい、って……)
まともな返事ができなくなっていることが恥ずかしくて、クラウドに誘導されつつ俯きながら入室する。ぱたんというのは扉が閉じた音。ぱちんというのは……部屋の明かりが消された音。まだ灯っている作業机の上の灯りを見つめていると、クラウドはそれを遮って先にベッド脇に腰掛けた。
「…ティファ」
その声で名前を呼ばれて、逆らえたことが今まであっただろうか。どれだけ緊張していようと関係ない。まるで魔法にかかったかのように、体はクラウドのもとへ動く。
恐る恐る腰掛けるクラウドの隣。クラウドの私への視線を感じる。何か話さないと。何かしないと。俯いたままじゃ何も始まらないし、何も終わらない。
(ああ、)
心が丸ごと、外に飛び出してしまいそうだ。
「……ティファ」
「な、なに?」
「…明日の予定は?」
「明日? えっと……この辺で、お店に使える食器探そうと思ってる」
「…それは、朝早くなくても大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫」
「わかった。……俺も一緒に行く」
「来てくれるの? …嬉しい、ありがと」
「……ティファはたくさん買いそうだからな」
「へへ、気に入ったのがあったらつい……」
「…なんでも買ったらいい」
「ふふ、あんまり私のこと甘やかしちゃ……、あ」
言葉に詰まった瞬間と、キスをされると悟った瞬間はほとんど同じときだった。目を閉じ終わるよりも先に、クラウドの柔らかい唇が自分のそれに重なる。
(わ……、)
急に慌てはじめる心。はじまったよ、と頼んでもいないお知らせが頭の中で鳴る。
必死に目を閉じて小鳥のような優しいキスを受け止めているうちに、クラウドの角ばった手が私の後頭部へとまわる。それからベッドの上へとゆっくり押し倒されるまで、時間はかからなかった。
「ん……」
「……」
「……クラウド、」
「…うん」
キスの合間に名前を呼んでも、クラウドはそれを止めることはしない。徐々に深くなっていく口付けに精一杯になっているうちに、足を割って入ってくるクラウドの脚。さっきまで後頭部にあった手は、行き場を失う私の手に絡められる。
体がどんどん熱くなる。呼吸もどんどん苦しくなる。クラウドはもう、さっきまでのクラウドじゃない。
「…は……」
「……」
「…っ、く、クラウド」
「ん……?」
「待って……」
「…あまり待てない」
「……、」
キスの隙間を見つけてようやくできるようになった会話。だけど私を見下ろすクラウドは既に、ゆっくり話に付き合うつもりはなさそうだった。
余裕のない低い声に、つきつけられる喜び。クラウドが私を求めている。いつもならいくらでも聞いてくれる我儘を、すぐに否定してしまうほどに。名前を呼べば返してくれる微笑みすら、うみだせないくらいに。
(……だめだ)
こんなの、どうしたって……嬉しい。
「…ティファ」
「ん……」
「…嫌じゃないか」
「……うん、嫌じゃない」
「……寒くもないか?」
「うん。……クラウドがあったかいから大丈夫」
「…よかった。……それと、ごめん」
「…?」
「…これ以上はもう、優しくできない」
クラウド。その名前を呼ぶ前に言葉はキスに遮られる。さっきまでと明らかに違う性的な口付けに、体の奥が目を覚ます感覚がした。クラウドの言う最後の優しさは、急上昇する湿度の中に溶けてまざり消えていく。そしてきっとしばらくここへは戻ってこない。私かクラウドのどちらかが、熱を放ち終えるまで。
だけど毎分毎秒、はちきれそうな心臓を守りながら、私はさいごまでそれを確かに感じ続けていた。
クラウドの指先に籠る、消すことなんてできない強い強い優しさを。
くつはガラス
(何度でも、透明をささぐ)
fin,