「ありがとうねぇ」
腰の曲がった背の低い、年老いた女は俺を見上げそう言った。雨水と泥で汚れに汚れた荷物を受け取りながら、惜しげもなく。
てっきり文句を言われると思っていた俺は、予想外の言葉に瞬きを繰り返す。配達物を汚したのは突然の通り雨。だが、荷物をきれいな状態で届けられなかったのは俺の落ち度。
「……」
「…おや、どうかしましたか? 配達屋さん」
「いや……怒らないんだな」
「怒る?」
「…荷物が汚れた」
「中身は綺麗なままでしょう? 何も怒ることはありませんよ」
「……」
「雨の中、荷物を守ってくれてありがとう」
そういって微笑む老婆の手は、荷物についていた泥のせいで汚れている。申し訳ないから何か拭うものをと思ったが、生憎俺の手は更に汚れているから手助けしてやれそうにない。
「すまない」
迷惑をかけたことには違いない。申し訳ない気持ちと、快く受け取ってくれたことへの感謝を込めて言葉を伝える。
すると老婆は、子どものようないたずらっぽい笑顔をつくり、俺に忠告をくれた。
「いいえ、配達屋さん」
「?」
「こういうときは、ありがとうと言ってもらえた方が嬉しいわ」
「…ああ」
もっともな指摘に、俺も頬を緩ませる。雨のせいで落とされた気持ちが、不思議と和らいでいくのを感じながら。
「……ありがとう。受け取ってくれて」
「はい。どういたしまして」
情けなくも湿気で柔らかくなってしまった伝票を渡し、サインを貰う。その人は嬉しそうに笑っていた。特に大したサービスもしてやれていないのに、ずっとずっと上機嫌に。
「またお願いしますね」
その笑顔はしばらく俺の中に灯り続けた。ワンシーンを切り取ったかのようにくっきりと。
いつの間にか、感謝の言葉は俺の周りに溢れていた。
たったひとり、たった一つの夢を求めてがむしゃらに生きた日々。人付き合いがいいとは口が裂けても言えず、基本的に単独行動で、不特定の誰かと馴れ合うのを避けてきた。人が嫌いなわけではない。ただ自信がなかった。弱い自分をすぐに受け入れられなかったから、俺は一匹狼を演じ続けた。村を出る前も、村を出た後も……自分を失い、取り戻すまでの間も、ずっと。
そんなかつての自分が、今を見たらどう思うだろうか。人に囲まれ、人がいないと生きていけない環境で、大切な人たちに支えられながら日々生きている自分を。
旅を終え、迎え入れてくれた家族のもとで、俺は人を相手にする仕事を選んだ。生きていくために金を稼がないといけないから、自分にできることの中から選んだだけにすぎないかもしれない。だが確かに言える。俺はこの仕事が嫌いではない。人の思いや気持ちを受け取り、それをそのまま相手に託す。「誰か」がいないと成り立たない生業をこなしながら、俺は確かめていた。これまで感じたことのなかった、人と繋がることの喜びを。
これまで知らなかったこと。知ろうともしなかったこと。
大切な人が……時間をかけて俺に教えてくれたこと。
「ただいま」
通り雨にあってから半日後。家に着いたときには既に日付が変わり、エッジの街も流石に静まり返っていた。
そんな時間帯なのについ、声に出して帰還を報告してしまったのは、家族みんな寝ているはずの店の電気がまだ灯っていたから。
「……ティファ?」
店の裏口から入り、戸締まりをしっかりしてから、俺はひとときも忘れることのない人の名前を呼ぶ。灯りを点してくれているとしたら、ときどき遅くまで帰りを待ってくれているティファしか考えられない。重い疲労を感じながらも早る思いで明るい店内に入る。きょろきょろと辺りを見渡し、その姿を探せば、ソファー席で縮こまって眠っているティファをすぐに見つけることができた。
「…ティファ」
十中八九、俺を待っている間に寝てしまったのだろう。寝心地がいいわけがない場所で眠るティファに慌てて駆け寄り、顔をよく見たくて膝をつく。迎えてくれたのは、とても穏やかな寝顔。愛おしさのようなもので胸が苦しくなるのを感じながら、その柔らかそうな頬に触れようと手を差し伸べたとき、グローブをはめた自分の手が酷く汚れていることを思い出す。
このまま綺麗なティファに触れるわけにはいかない。そう思い、慌てて両手のそれを外していたときだった。ティファがゆっくりと瞼を開いたのは。
「……ん…?」
「ティファ、」
「あ……クラウド」
ようやく覗く、美しいティファの紅い瞳。グローブを外した手でそっと頬を包んでやると、ティファは柔らかく口元を緩ませる。それからティファはまるでお返しとばかりに、夜風で冷えた俺の頬に同じように手を添えた。
「おかえり、クラウド……」
「…ただいま、ティファ」
「あれ……ほっぺた、泥だらけ。どこかで転んだ?」
「…走っている途中、雨にやられてな」
「そう……大変だったね。疲れたでしょう」
「……うん」
ティファのくれる慰めの気持ち。ゆっくり頭を撫でられることが嬉しくて、何も言えなくなってしまう。今日、この瞬間に出会うために俺は一日頑張っていたのかと思うと、妙な納得感があった。
とはいえ、ティファを遅くまで待たせてしまっていた事実は変わらない。詫びの気持ちを込めて触れるだけの口づけを贈る。
「……」
「…ティファ」
「ん……?」
「遅れてしまってすまな……」
(……あ)
『こういうときは、ありがとうと言ってもらえた方が嬉しいわ』
申し訳ない気持ちをティファに伝えようと思ったとき。ふと、今日、あの人に言われた言葉を思い出す。
目の前のティファは、急に固まってしまった俺を不思議そうに見つめている。もし、この言葉を選んで、ティファが笑顔になるのなら。
「クラウド……どうかした?」
「いや……。ティファ」
「?」
「…ありがとう。待っていてくれて」
「あ……へへ。……迷惑じゃなかったかな」
「そんなわけない。申し訳ないけど、すごく嬉しい」
「…よかった……」
ティファは、はにかみながら両腕を俺に伸ばし、抱きしめてほしいとサインを出す。それを断る理由があるはずもなく、俺はようやくティファを抱きしめて、その温もりを感じる。
「……」
「……ふう」
互いにつくのは、長い長いため息。ようやく「帰ってきた」のだと喜びを感じ合う。
言霊というものは本当にあるのかもしれない。心の中はさっきよりもずっと、柔らかい。
「……クラウド」
「…ん?」
「…ありがとう。無事帰ってきてくれて」
「……お安いご用だ」
「…おなか、減ってるでしょう。ごはん温めようか」
「うん、でも……ティファはもう休んだほうがいい。疲れてるだろ」
「……うん。……だけど」
「?」
「…それよりも、一緒にいたいの」
そのために待っていたのだから、とティファは小さな声で付け足す。嬉しい本音を確かめたくて顔を覗き込むと、ティファは目をきょろきょろさせながら自分の発言を恥ずかしがっていた。
「…うん。ティファ」
「……」
「じゃあ……頼んでもいいか?」
「……うん!」
ティファの希望を叶えるというよりも、俺自身の希望を叶えてもらうような、少し罪悪感の残るお願いをする。だけどティファが見せてくれた満面の笑みは、そんな悩みなんてどうでもいいと思えるほど……眩しかった。
「ありがとう」
ティファが料理を温め直し、食べられるようになるまで15分もかからなかった。仮に俺が自分で調理をすると、余裕でこの倍の時間がかかるだろう。手慣れた様子に改めて感心しつつ、俺が腹を空かせて帰ってくることを予想して待っていてくれたティファへの優しい想いが募る。
「ゆっくり食べてね」
「ん。……いただきます」
料理ののった皿を俺の前に出してから、ティファは向かいの席に座り、微笑む。見つめられながら食べることにまだ慣れていないが、恥ずかしさよりもティファが笑顔になる嬉しさが勝り、つい惜しげもなく頬張ってしまう。
「……。うまい」
「よかった。今日のは自信作だったから」
「…自信がないときがあるのか?」
「あるよ、いっぱい」
「ティファの飯をまずいと思ったことがない」
「ありがと。クラウドは何でも美味しいって言ってくれるよね」
「…事実だからな」
「ふふ。美味しくなかったらちゃんと言ってね?」
「わかった。正直に全部うまいと言う」
「もう」
この笑顔を見るたびに思う。帰って来れてよかったと。家に、ティファがいる現実が夢でなくてよかったと。
ティファのもとへ帰る。ティファと話をし、触れ合う。そしてティファの作った料理を食べる。この全てが、人との馴れ合いを拒んでいた後ろ向きな俺を、少し前向きな方向に変えてくれるから。
食べても食べても飽きのこない料理を口にしながら考える。どうやったらこの気持ちがティファに伝わるのか。どうやったら感謝していることを知ってもらえるのか。
そこまで考えてから……俺は覚えたての、最もシンプルな方法を思い出す。
(……)
「…ティファ」
「ん?」
「……いつも、料理を作ってくれてありがとう」
「え? どうしたの、急に」
「…言いたくなった」
「ふふ……変なクラウド。……でも、ありがとう」
「…どうしてティファが礼を言う?」
「だって、言って貰えて嬉しいから」
「……」
嬉しいというティファの言葉は、ティファ自身の笑顔が証明してくれる。その笑顔をもっと見ていたくなって、俺は調子にのって言い慣れていない言葉を続けた。
「……あと」
「?」
「…毎朝、起こしてくれてありがとう」
「ふふ、うん」
「……子どもたちのことも、ありがとう」
「それはクラウドもだよ。疲れてても遊んでくれてありがとう」
「…あの二人には、俺よりもティファが必要だ」
「あら。それは反論させてもらおうかな」
二人で、冗談とも本音とも言えるやりとりをして笑い合う。
不思議だ。この言葉は、自分が言われるよりも自分が使った方が効果があるらしい。どんどんティファに伝えたいと思う。もっと、ティファに聞いてほしいと思う。朝から晩まで感じる感謝を。春から冬まで思う想いを。
「…ありがとね、クラウド」
ティファはひとしきり笑ったあと、優しい声でそう呟く。その笑顔だけで気持ちは満腹になるような気がした。
「ん?」
「たくさん、お礼」
「…いつもちゃんと伝えられていない気がして」
「そんなことない、伝わってるよ。……でも」
「?」
「…言ってほしいって思ってるわけじゃないんだけど……やっぱり言葉にしてもらうと、嬉しい」
「……」
瞼を伏せて頬を赤らめるティファを見つめながら、脳裏に思い出がふと蘇る。
あの日……最後になり得た日。俺たちしか知らない、二度とこない特別な夜。ティファが言ってくれた、忘れることのできない言葉。
『想いを伝えられるのは言葉だけじゃないよ』
思えば俺は、あの思い出にずっと甘え続けてきたのかもしれない。元々口下手なのも災いし、言葉をティファに伝えようとしてこなかったかもしれない。
ティファは優しいから、多くを俺に求めようとしない。でも、だからといって何も伝えなくていいという理由にはならないだろう。ティファが我儘を言うのが苦手なことを、俺はよく知っているはずだ。ティファに臆病な一面があることを……俺はわかっているはずだ。
「……ティファ」
「ん?」
名前を呼ぶと、ティファは俺を信じて見つめてくれる。あの頃から変わらない、澄んだ綺麗な瞳で。
「俺……もっとティファに伝えたいことがあるんだ」
「…クラウド」
「…前は、あの夜は……ティファは言葉以外の方法を教えてくれた。俺がうまく言葉にできなかったから」
「……うん」
「…でも、今はあの夜と違う。ゆっくり考えて、ティファのための言葉を選ぶ時間がある」
「……」
「だから……時間はかかるかもしれないけど、聞いてほしい。上手くなくても、ちゃんと伝えたいから」
しどろもどろに紡ぐ言葉を、ティファは静かに聞いていてくれた。それから微笑んで、つたない言葉を噛み締めるようにゆっくり頷く。その笑顔は、あの夜とは少し違うものに見えた。穏やかで、柔らかくて……幸せそのもののように見えた。
時間があるとはいえ、結局有限であることに限りない。ぼうと生きていたら必ず、ふとしたときに終わりが来る。
俺か、ティファがこの世界を去り、何も伝えられなくなる日は必ず俺たちの元に訪れる。それはどれだけ願っても、どれほど卑怯を働いても逃れることはできない。俺たちが人間である限り……人として生きようと願う限り。
だからこそ言葉という形にして残したいと、今なら思うんだ。不恰好でもティファの記憶に残るように、ティファの支えになるように。
俺たちは今、それができるのだから。言葉という手段を、選べるようになったのだから。
子どもたちがすっかり夢の中に遊びに行った夜更け。俺とティファは、短い夜を過ごした。その夜は確かに、あの夜感じえなかった安堵を俺たちにもたらしてくれた。
ふわり
(ふり、ふりつもる)
fin,