「ティファ、虫に刺されてるよ」

 

マリンが私の首元を指差して、それを教えてくれたのは、おはようの挨拶をしてから間もないときだった。

最初、何のことを言われているのかわからず首を傾げる。だけどマリンが身を乗り出し、首元をピンポイントで指摘してくれたとき、すべて合点がいった。何故なら私には文字通り、身に覚えがあったから。

 

「ご、ごめんね! マリン」

 

反射的に謝りながら、かああと一気に頭に血が上っていくのがわかる。嫌な鳴り方をする心臓の鼓動。キッチンに常備してある絆創膏を慌てて手にとり、指摘された場所に貼る。この「痕」の正体にマリンが気づくことはないとわかっているけれど、気にしないふりができるほど、私はまだ大人ではなかった。

 

「どうして謝るの? ティファ」

「あ……えっと、なんとなく」

「でも、虫どこから入ってきたのかなあ。ティファ、昨日は刺されてなかったよ」

「そ、そうだっけ? 寝室、掃除してみるね」

「うん。あ、あんまり触っちゃだめだよ! 触りすぎたらね、痕になって残るって、とーちゃんが言ってた」

「そうだね。ありがとう、マリン」

 

どういたしまして。スプーンとフォークを片手ずつ握りしめて、満面の笑みを見せるマリン。形容しがたい罪悪感に蝕まれながら、私も彼女にできる限りの笑顔を返す。絆創膏を貼ったからもう大丈夫なのに、なんとなく首元から手をのけられないまま。首元に残る、昨夜の熱い記憶までは……封印することができないまま。

 

 

 

 

 

 

 

私はいま、浮かれている。思っていたよりも、それはそれは深刻に。

 

浮き足立っている自覚はあった。メテオが消滅したあと、ずっと続いていた慌ただしい時間がひと段落して、ようやく新たな生活をはじめようというときから。これまで失ったままだった「帰る場所」が自分にできてから、ずっと。

 

その原因に、同じ屋根の下、いっしょに暮らし始めたクラウドがあることは言うまでもない。

 

想いを確かめあったあの夜から、私たちの関係は大きく前に進んだ。タガが外れた、という表現がしっくりくるのかもしれない。それは経験したことのない時間だった。毎日熱に浮かされて、ぷかぷか水の上を漂っているような感覚。目が合うたびにどきどきした。指先が触れるだけ息が詰まった。今まで眠っていた私の中の女性的なものが、急に目覚めたのだと思った。クラウドという人を知ってしまった本能が、必死になって彼を求めているのがわかった。自分自身のあまりの変化に、一年かけて築き上げていくべき感情を、一ヶ月で乱暴に育てあげてしまったような、そんな感覚さえあった。そして、おそらくそれは……クラウドにとっても、同じことだった。

 

私たちは時間とタイミングが許す限り、何度も体や心を重ねた。1時間でも30分でも、1分しかなくてもお互いを感じる瞬間を必死に続けた。方法は多分なんでもよかった。話をする。視線を絡ませる。手を繋ぐ。唇を重ねる。体を繋げる。ありとあらゆる手段が、二人の目の前に転がっていた。突然訪れた争いのない穏やかな時間は、飢えに慣れていた私たちにとって、あまりに贅沢すぎた。

私たちは、夢中になってお互いを求めた。これからのことなんて全部後回しにしちゃえばいいと、冷静だったはずの自分が思考停止をしてしまうまで。

 

 

 

だから、そんな自分にとって、マリンの何気ない指摘は冷や水に等しかったのかもしれない。

 

彼女が教えてくれたのは、昨夜クラウドが残した鬱血痕。それがどうやって付けられたのかを、私は明確に覚えている。彼の舌が首筋を這ったとき、止めようと思えば止められたはずだった。嫌だと言えばクラウドはきっと止めてくれた。それなのに私は止めなかった。むしろ受け入れていたような気がする。クラウドが痕を残してくれることが嬉しくて、気づいていても何も言わなかった気がする。見られたら恥ずかしいものだって、わかっていたはずなのに。人に見せるものでもないこと、知ってるはずなのに。

 

そんな記憶のせいか、私はこの鬱血痕をマリンに見せてしまったことを、単なる失敗話として処理できずにいた。

自分が今、どれほど周りが見えなくなっているのか、気付かされたから。

 

周りの目なんて気にならなくなるほどクラウドに夢中であることを……自覚させられたから。

 

 

 

 

 

 

「…ただいま」

 

ぐるぐるぐると、考えても仕方のないことで悩んでいるうちに、あっという間に夜は来る。

食材調達に行っていたクラウドが帰ってきたのは、朝からずっと元気だったマリンが眠りについた頃。クラウドのための夜ご飯をぼんやり煮込んでいたときに、玄関の開く音が聞こえた。

 

「クラウド」

 

顔をあげて、声のした方を見る。ここに帰ってきた人と目を合わせ、確かめる。

悶々としている頭の中は置き去りに、体はまるで磁石のようにクラウドに引き寄せられる。手は慌てて火を止めて、足は勝手に、進み出す。

気づいたときにはもう、私はすっぽりクラウドの腕に包まれていた。

 

「……っ、おかえり」

「ん……ただいま、ティファ」

 

(……クラウド)

 

胸いっぱいに吸い込む空気。少しでも多く彼を感じたくて、クラウドの首筋に顔を埋め、大きく深呼吸を繰り返す。クラウドも同じようにして、安心したように大きなため気を残す。強く抱き寄せてくれる力が嬉しくて、心は勝手にうっとりとする。

 

ちかちかと。今朝から抱えるもやもやを確かに感じながら、私はクラウドを充電する。

 

「……お疲れ様」

「ああ……」

「…怪我はない?」

「うん。ティファは? 変わったことはなかったか」

「うん、大丈夫。何もなかったよ」

「そうか……よかった」

 

ほっとしたように呟いたあと、クラウドが私の頬にキスをした。私はそれを、口づけがしたいという合図だってわかっているから、ゆっくり顔をあげて彼と目を合わせる。息をつく間も無く重なる唇。やり方は知っているはずなのに、心ははじめてのときのようにぞわぞわとしている。まるで喉が渇いているかのようだ。味わっても味わっても、満足することができない。

 

息継ぎをするために唇を離したとき、ようやくここがまだ玄関で、クラウドが帰ってきたばかりであることを思い出した。

 

(……だめだ)

 

さっきまで散々反省していたはずなのに……全然、抜け出せる気がしない。

 

「…? これ……」

「……?」

「…痛むのか?」

「え? ……あ、」

 

さらり、と。クラウドの指がなぞったのは、今朝から隠しっぱなしの痕。とっさに私も指で絆創膏をかばってしまったけれど、クラウドはそれをのけて、有無を言わさず優しくを絆創膏を剥がしてしまった。

 

(……、)

 

なんだろう。改めてまじまじと見られると、何故か緊張してしまう。

 

「……、」

「……ごめん。結構、赤くなったな」

「…、今日……マリンが気づいちゃって」

「…マリンが?」

「虫刺されだと思ったみたいなんだけど……悪いことしちゃったなって」

「……すまない」

「ううん、いいの。嫌じゃないの、でも……」

 

その先はうまく言葉にできなかった。嫌じゃないけどつけないでほしい。伝えればいいのに、そういうわけじゃないとわがままを言う私が確かに心の中に存在したから。

 

「…ごめんね」

 

代わりに付け足した、謝罪の言葉。クラウドは深くを探ることなく、私の額に口付ける。

 

「ティファが謝ることじゃない」

「…うん」

「……ごめんな。恥ずかしかっただろ」

「ううん。平気……」

 

クラウドの肩に頭を預け、息をはきながら、心の奥のもやもやがまた、蠢いているのを感じた。不安を見つける得意技が出てしまったなと、罪悪感はひとり膨らんでいった。

 

 

 

 

 

 

 

一日の終わり。私たちは当たり前のように同じベッドに向かい、お互いに着ていた服を脱がし合う。

裸にされていく過程は、やっぱりまだ恥ずかしい。だけどクラウドが惜しみなく褒めてくれるおかげで、日を追うごとに見てもらうことも悦びに変わっていく。生まれて初めて、自分の体を本当の意味で好きになっていく。

 

「……っ、ティファ」

 

丁寧な愛撫を終えて、私の中に入る時、クラウドはいつも切なそうに名前を呼んでくれる。思わず声が出るような快感に耐えながら見上げる彼は、普段決して見ることのできない余裕のなさそうな顔をしている。私はそれが嬉しくて……クラウドがそうまでして自分を求めてくれていることが嬉しくて、次第に恥じらいさえも忘れてしまう。

 

「…っ……クラウド、」

「うん……」

「クラウド……」

 

私も何度も名前を呼ぶ。どこがいいとかまだよくわからないから、今自分は嬉しいのだということを伝えるために、クラウドを呼ぶ。

視界の中には、クラウドしかいなかった。クラウドのことだけを考えていればよかった。それを許されているこの時間が、私は多分、たまらなく好きだった。

 

 

 

 

 

 

「ティファ」

 

もう、今が何時かもわからない真夜中。心配そうな声で名前を呼ばれたのは、ベッドの上でぼんやりと脱力していたとき。行為を終えて、汗だくになった体を拭くためのタオルを取りに行っていたクラウドが、そっとベッドに腰掛けてから私の汗ばんだ額を拭く。

眠くて仕方のない私とは対照的に、クラウドはすっきりとした様子で、私にはそれすら眩しく見えた。

 

「………クラウド」

「……平気か?」

「うん……」

 

優しく頭を撫でてくれる手が心地いい。大きくゆっくり呼吸をしながら、この人にうっとりしている自分を自覚せざるをえない。

私が微笑んだのを確認したクラウドは、満足そうに頷きようやくベッドの上に横たわる。行為もそうだけど、いまだにクラウドの隣で眠れるということに慣れなくて、どきどきする心臓を落ち着かせるのに毎晩苦労する。

 

特別だから。まだ、何もかも。過去に飛んでいって、俯く自分に今すぐ伝えたいなんて馬鹿げたことを考えるくらいに、私の中では夢のようなことだから。

 

浮かれる自分を白い目で見る一方、仕方がないとわかっているの。我を忘れてのめり込むほど、クラウドとずっと一緒にいたいと望んできたのだから。

 

「……これ」

「……?」

 

頭を撫でてくれる大きな手の感触に安心しながら、再びうとうとと眠気を感じ始めたとき。

私をじっと見つめていたクラウドが、思い出したようにぽつり呟き、私の首筋に指を這わせた。

 

「……、」

「…早く、目立たなくなったらいいな」

「……うん」

 

咲いてから一日が経過しようとしているキスマーク。明日にはきっと、赤色は黒に変わり、やがて消えていくのだろう。もう少し絆創膏は必要だけれど、マリンを心配させてしまう時間はおそらくそれほど長く続かない。

 

ほっとすること。望んでいること。それなのにすっきりしない心の中。夜の熱にほだされて、すっかり緩くなった私の本音は、クラウドの腕の中で最も簡単に溢れ出してしまう。

 

「……。…だけど」

「?」

「…消えたら消えたで、ちょっと寂しいね」

「……ティファ」

「……。ごめん、何言ってるんだろ。酷いわがまま」

「……」

 

消えて欲しいのか、残って欲しいのか。

はっきりしない自分の本心が嫌になる。私は多分、クラウドが優しいから甘えている。何があってもこの人は私を責めたりしないのだと、あぐらをかいている。

 

(……)

 

また、困らせちゃうな。そう思って、もう一度謝ろうとしたとき。黙っていたクラウドは、そのまま何も言わず、顔を私の胸元に埋め、柔らかい胸の皮膚に歯を立てた。つんと感じた痛みから、私は彼が新しい痕を咲かせたことを把握する。声を出す間も無く……痕は生まれる。

 

「く、クラウド」

 

慌てて名前を呼ぶ。ゆっくり顔をあげたクラウドは、どこか悪戯めいた表情で、優しく微笑んでくれていた。

 

「……ここなら誰にも見えない」

「あ……」

「…俺しか見ないだろ」

「……うん」

「…ならこれで、全部解決だ」

「……クラウド」

 

もやもやをすっかり忘れて、思わず笑顔になってしまう。つられてもっと笑ってくれることが嬉しくて、私もますます笑顔を深める。

 

ああ。わかっていたつもりだけど、この人は優しすぎるんだ。望みも迷いも何もかも、クラウドはいつも底なしの何かで包み込んでくれる。迷っていることを否定せず、強欲すぎる望みも受け入れて、ただ大丈夫だと言う。ずっと変わらない目で私を見てくれる。

 

クラウド。私はあなたに、対価を支払えているのだろうか。あなたを好きで、そばにいることしかできない私が、こんな幸福を受け取っていいのだろうか。

ずっとこの時間が続けばいいのになんて……途方もない夢を、抱き続けていいのだろうか。

 

「……いいのかな」

「ん?」

「……こんなに幸せで、甘えてていいのかな……」

 

とてもとても小さな声で、とてもとても大きな不安をクラウドに届ける。クラウドが困るのをわかって尋ねる自分に、新しい罪悪感を覚えながら。

それでもクラウドは、迷うことなく私を抱き寄せた。答えなんてあるはずがないのに、大きく頷いた。

 

「……いいんだ」

「……」

「いいんだ……ティファ」

「……、」

「…そうあってほしくて……俺はここにいるんだから」

 

言葉の真意を確かめたくて、クラウドの目を見つめる。だけどクラウドはそれ以上何も言わなかった。ただ穏やかに微笑むだけだった。その美しい瞳の奥を見つめながら、私はひとり思い出した。私たちが想いを伝え合う方法を、言葉に頼らなかった意味を。言葉なんかじゃ到底伝えきれない感情が、私たちの間に横たわっていることを。

 

言葉にさえできないのだから……迷うのは、不安なのは、当たり前のことなのだろうか。私はこのまま、押し寄せてきた幸福の波に揺られていいのだろうか。

 

わからない。考えてもわからない。

でも、確かにクラウドはここにいる。隣にいて、手を繋いでいてくれる。それだけが……それだけの事実が、今かろうじて、私に幸せである権利を与えてくれている。

 

私に、居場所を与えてくれている。

 

 

 

 

 

逞しい胸に頬を寄せ、心音を確かめるために耳を当てる。とくんとくんと力強いその音は、何よりもの子守唄になる。

クラウドの隣はこんなにもあたたかいのに、私は底しれない寒さを感じていた。この寒さを生み出しているのが、他の誰でもなく自分自身であるという事実に、向き合うことをしないまま。

 

 

 

ハッピーエンドを知らない子

 

 

 

 


fin,