「ティファ」
特に用事もないのにその名を呼んでしまったのは、キッチンに一人で立つティファの横顔が疲れているように見えたからだった。
仕事も終え、シャワーも終え、あとはもう眠るだけの時間。俺が汗を流す間に消灯された子ども部屋と違い、店の明かりはついたまま。様子を見に一階へ降りたとき目にしたのが、俯き固まったままのティファだった。
「……あ、クラウド」
呼ばれたことに気がついて、ティファがゆっくり顔をあげる。俺を見て微笑む表情は、やはりいつもと違い目元に力がないように見える。
どうしようか。何て声をかけよう。大丈夫かと尋ねたら、ティファはおそらく「大丈夫」と答えてしまう。一度そう言わせてしまうと撤回させるのが難しいから、なるべくその返事はさせたくない。
だが情けないことに……口をぱくぱくさせて挙動不審にしている俺を不思議に思ったのか、ティファの方から口を開いてくれた。
「…もうシャワー浴びたの?」
「え? あ、ああ……」
「おつかれさま。今日ずっと移動だったんでしょう」
「…うん。ありがとう」
「お仕事は? もう寝れそう?」
「ああ……ティファは?」
「私は、お店の後片付け、もうちょっとしてから寝るね」
「…俺も手伝う」
「いいよ、すぐ終わるし。疲れてるでしょ? 先に寝てて」
「……」
後片付け、と言われて、どれくらい残っているのかなんとなく室内を見渡し確認する。どうやら今日は相当繁盛していたらしく、珍しくまだ客席は片付けられていなかった。ティファは仕事が早い。だがこんなに疲れているようじゃ、片付けているうちに日付は跨いでしまうだろう。
何より……疲れているのは、俺よりも。
「……ティファ」
リベンジとばかりに再度名前を呼ぶ。ティファはきょとんとこちらを見てくれている。俺はその丸い瞳を見つめながら、一、二歩と近づき、不慣れに両腕を広げて見せた。
「……え?」
「……。店の営業は終わった」
「う、うん」
「…子どもたちも寝た」
「……」
「……誰も見てない」
言葉足らずなのを自覚した上で、ぽつりぽつりとティファに状況を伝える。ごめん。ストレートに伝えられたらいいんだが、上手な方法をまだ俺は習得できていない。
最初不思議そうに俺の話を聞いていたティファ。だが途中で、はっとしたような表情に変わる。それから辺りを見渡して、俺の言葉の意味が……誰も見ていないという意味が本当なのかを確かめる。
「……、」
ティファが躊躇いながらも小走りで、俺の腕の中に飛び込んできてくれるまで、わずかな時間しか必要なかった。
「……ふー…」
「……」
なるべく柔らかい力でティファの体を抱きしめる。ティファは意図を汲んでくれたのか、心底ほっとしたようにため息をついてくれた。そしてそのまま俺に体重を預け、胸に頬擦りをする。……ティファのような柔らかいそれでなくて申し訳ないと思いながらも、ようやく力を抜いてくれたことが嬉しくて、俺も釣られて息をはく。
ちらりと表情を盗み見ると、ティファはしっかりと目を閉じ、リラックスしてくれているように見えた。
(……)
「……クラウド」
「ん?」
「ありがと……」
「…まだ何もしてない」
「ううん……これが欲しかったのかもしれない」
「…これ?」
「うん。……クラウドの、これ」
「……」
胸に頬を寄せながら言われると、欲しかったのが抱擁なのか胸なのか、若干不安になる。
だが何はともあれ、ティファの甘えられる場所になっている事実に、心の中は歓喜で震えている。ティファの欲しい何かになれている今に、頬は緩む。
改めて、単純で、どうしようもない男だと思う。ティファは疲れているのに……俺は多分、今日一番、嬉しい。
「……ふう」
「…疲れただろ。お疲れ様」
「…ありがと。クラウドも……」
「ん……今日は忙しかったのか?」
「うん……お客さんいっぱい来てくれて……いっぱい頼んでくれたから……」
「……そうか」
「…うれしい悲鳴なんだけどね」
「…どんなものでも、ティファに悲鳴はあげて欲しくない」
「ふふ……」
ティファの髪をゆっくり撫でながら、改めて店内を見渡す。残っている仕事はいくつかのテーブルの片付けと、テーブル拭きと、食器洗いだけと見た。幸い明日に向けて下ごしらえ中の料理はなさそうだ。……これくらいの後片付けなら俺でもできるかもしれない。
「……ティファ」
ティファの髪を耳にかけ、囁くようにある提案をする。少しうとうとして見えるティファに、このまま安心していてもらうために、優しく。
「……?」
「…提案があるんだが」
「……なあに?」
「…少し、休まないか。十五分だけでいい」
「休む……?」
「うん。その辺りに座ろう」
「……」
少し考えて、ティファがこくりと頷く。それを確認してから、ティファの膝の裏を抱えて横向きに抱き上げると、満足そうに首に腕を回してくれた。
そんなティファに邪な欲情を催さないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりとソファ席に運ぶ。抱き抱えたまま座れば、まるで俺が赤子を抱いているような格好になったから、ティファはおかしそうに笑った。
「ふふ……私赤ちゃんみたいだね」
「…いいよ。俺たちしかいないから」
「……。このまま休んでいいの?」
「うん」
「…そばにいてくれる?」
「ああ。そばにいる」
「……ありがとう」
今度こそ全ての力を抜いて、ティファは俺に体を預ける。肩に頭を寄せたまま、ゆっくりと閉じられていく瞼。その様子を見つめながら、眠りに落ちるまでそれほど時間がかからないことを悟る。
自身を赤子のようだと例えたティファは、あながち間違っていない。事実俺は今……自分の体温を使って、ティファを眠らせようとしているのだから。
「……クラウド」
「…ん?」
「…寝ちゃいそうだから……十五分経ったら起こして……」
「……わかった」
ごめん、ティファ。少しだけ嘘をついて、ティファを騙してしまう。
仕事が好きで一生懸命なティファが好きだ。でも、それ以上にティファの笑顔が大切なんだ。ティファが疲れ果ててしまうことよりも、ティファにあとで怒られるほうが余程いいんだ。
ティファが大事なんだ。目に入れたって痛くないほどに。ティファのいない人生を、想像できないほどに。
やがて、腕の中から穏やかな寝息が聞こえ始める。俺はティファを起こすことなく、眠らせたまま寝室に運び込む。
そして、ティファなら三十分で終わらせてしまうかもしれない店の片付けを、俺はこれから一時間近くかけてやる。だが苦痛ではない。むしろ誇らしいかもしれない。明日、ティファは拗ねるかもしれないが。片付け方が下手だと注意されるかもしれないが。それでも。
ティファを寝かしつけたあと、大きな音を立てないよう不器用な手つきで、一人上機嫌に食器を片付けた。眠気はしばらく、ここには来てくれそうになかった。俺にとってこの幸福はまだ、刺激が強いものだったから。
count on me
fin,