ティファを泣かせてしまった。それもかなり久しぶりに。
「……」
ぽろぽろと流れる涙に心臓がざわと動いた瞬間から、どれくらいの時間が経ったんだろう。灯のともっていないティファの部屋で、月もどこかに行ってしまった窓の外の夜空をぼんやり見つめながら考える。
「………」
ティファは今、俺の腕の中にいる。二人ベッドの上に座り、彼女は俺に体を預けて穏やかに寝息を立てている。
泣き出したティファを抱きしめてあやしているうちに、気づけば彼女はその意識を飛ばしていた。まるで泣き疲れた子どものようだ。一応…安心はしてくれているのかと思い、ほっとしている自分がいる。
(……)
眠っているかどうか確認するためにきれいなその顔を覗き込む。わずかに瞬いている外の星の光が、ティファの頬に何本も流れる涙の跡を示していた。
ティファの様子がおかしいことに気づいたのは、真夜中仕事から帰ってきたその足で、眠る準備をしていたティファの部屋を訪れたとき。俺は、彼女にとっては嬉しくないであろう知らせを……あと数時間後にまた家を出るという知らせを伝えるために、一息つく間も無くティファのもとに行った。
ティファは、もうすでに灯の消された部屋の中にいた。彼女は最初、突然帰ってきた俺を見て嬉しそうに笑顔を見せてくれていたが……俺がその「嫌な知らせ」を口から漏らせば漏らすほど表情を曇らせていった。話しながら「これはまずい」と感じるほどわかりやすく。
途中、俯き始めたティファにおずおずと「大丈夫か」と声をかけたとき……涙は、ティファの瞳からぽろぽろとこぼれ始めた。俺は慌てて名前を呼ぶ。ティファも驚いて涙を拭う。
それからすぐ、涙を隠してなぜか謝り始めるティファを、ほとんど無理に抱き寄せた。どうした、と声を掛けながら、宥めるように何度も背中をさすった。動揺しすぎてそんなことぐらいしかできなかった。
なんでもない。気にするな。ごめん。ティファは俺の腕の中でその類の言葉を何度も何度も呟く。
なんでもないわけがないし、気にしないなんてことができるわけもなく、謝られる理由もない。
何もかもわからないまま俺はただ、ティファの否定的な言葉を否定し続けた。とりあえず安心して欲しくてずっと名前を呼んでいた。何が大丈夫かもわからないまま、大丈夫だからと伝え続けた。……正直最初はショックであまり頭が動いていなかったように思う。
そして、腕の中で少し落ち着いたティファはただ一言、小さく呟いた。少し疲れただけなんだと。
(……)
彼女を起こさないようにそっと頭を撫でながら、小さなため息を心の中から逃す。
最近疲れてるな、とは思っていた。店が繁盛していて、そこではたっぷり笑っている彼女が、ふとした瞬間にため息をついたり、ぼーっとしている様子に何度か遭遇していたから。
そして、それを十分にケアできていない自覚もあった。というのも俺も今、いわゆる繁忙期の真っ只中にいる。働き始めてから頻繁に感じることだが、なぜか忙しい時に限って次々と仕事は舞い込んでくる。どれだけスケジュールを管理していても予期せず定期的にやってくる。…しかも大体それは、ティファの繁忙期と重なる。
だからこの数週間、日中に顔を合わせる機会があまりなかった。ただでさえなかなか店の定休日と休みが合わないのに、仕事を捌き切れないことを理由に休日返上で働いていたことも災いして、その期間は長くなっていた。……そういえば実際ティファに数日前「休めないのか」と聞かれたことを思い出す。これを彼女が口にするということ自体相当疲れているという意味になるのに、俺はそのときあまりに忙しくて「難しい」とだけ返した気が、する。……そうだ、兆候はちゃんとあったんだ。こうして思い返してようやく気づく。
「……」
指で、ティファの柔らかい頬に触れる。拭いきれないことをわかっていても、その涙の跡を指で拭おうとする。
今日はあえて言えば「運良く」涙を見れたが、ティファは普段から我慢する癖がある。そしてそれを基本的に人に見せない。自分で考えて自分で解決しようとする。人の性格が並大抵のことでは変えられないように、ティファの頑張り癖は昔から変わらない。誰にでも優しくあろうとする彼女に、我慢はどうしたってついてくるものではあった。
そして同時に……情けなくも、そんなティファに我慢をさせている一番の原因が俺自身であることを、俺も…おそらくティファもわかっている。
信用してもらえていないわけでも、頼りにしてもらえていないわけでもないと思う。そう思いたい。だが…そういったこと以前に、俺にはティファが「我慢しなければならない」と思わせてしまうような行動を取ってきた過去がある。ミッドガルで再会した頃も、旅の間も……そしてエッジで「家族」になってからも、俺はティファを何度も傷つけてきた。何度も我慢をさせてきた。そうして負わせた見えない傷は…ティファがいろんなことを呑み込んでしまう癖を身につけてしまった、ひとつの原因になっている。
ティファは何も言わない。何も、言わないけれど。
「……」
さっきまで泣いていた人とは思えない、優しい表情で眠りにつく彼女の頬を撫でる。
(……ティファ)
なあティファ。そんな俺がティファに我慢するな、なんて言うとおこがましいだろうか。
現に、今回だって我慢をさせてたのは大方俺なのに…どの口が言うんだとティファは思うだろうか。
ティファに笑顔でいてほしくて一緒に生活しているはずなのに……ただそれだけのことを、俺はまだ簡単にしてやれない。簡単に与えてやれない。むしろ、から回るときも、すれ違うときもいまだに多い。
生きるということは、そんな単純な願いを単純なまま終わらせてはくれない。一緒に生きるということは、楽しいことや嬉しいことだけでは成り立たない。
だけど例えおこがましくとも…例え自分にその資格が十分になくても、懲りずにいつまでもいつまでも考えてしまう。ティファが抱え込んでしまう苦しみを、どうすれば和らげてやれるのか。ティファが負ってきた…時には負わせた傷を、どうすれば少しでも癒すことができるのか。
それは全て、ティファがもうすでに、俺にしてくれていることでもあった。ティファは、俺が気づかないうちに俺の苦しみを一緒に背負ってくれていた。俺が知らない間に、自分自身でさえ気づけないところにある深い傷を癒し続けてくれていた。
(……)
ティファは……そうやってあるものを癒すだけではなく、たくさんのことを無償で与えてくれた。たくさんの感情を一から教えてくれた。
誰かのために、仕事をしたいと思うことも。誰かのために、家に帰りたいと思うことも。
誰かの機嫌が自分の機嫌を左右することも。誰かのことで一日中真剣に悩み抜いてしまうことも。
誰かの笑顔のためならなんだってできるような気になる、不思議な力も。
自分じゃない誰かのために、今の自分よりもっともっと、強く、大きくなりたいと思う日がくることも。
それがどれだけ難しくても、どれだけ時間がかかっても、どれだけの壁を乗り越えなければならなくても……放り出したくないと思える日が来ることも。
自分の持っているすべてを捧げてもいいと思える人が…幸せにすることを諦めたくないと思える人が、隣にいる喜びを。
「…ん……」
「……、」
ティファがふと、腕の中で身じろぎをした。起きたのかと思い顔を覗き込んだけれど、まだティファは眠りの中にいる様子だった。長い睫毛は揺れることなく、その目蓋はいまだ綺麗な瞳を守っている。
そういえばと、壁にかかる時計を暗闇の中、目を凝らして見つめる。ひたすら一人で考え込んでいただけなのに、想像以上に時間は進んでいた。これから出発までの間に睡眠を取る時間はまずない。遅くとも後一時間後には支度を始めないと配達に遅刻する。
(……このままじゃだめだな)
俺自身が睡眠を取れないことは問題ではない。徹夜をすることには…いいことではないだろうが慣れているから、仕事に支障をきたすこともないと思う。そんなことよりも、この状態でティファを一人きりにさせることの方が問題だった。このまま仮にティファを起こさず眠らせたとして…朝目を覚ましたとき、一人きりを知る彼女がどんな感情を抱くかという想像ぐらい、俺にもできた。
(…起こすか)
息をつく。起こしたところで、自分に何を話せるのかはわからない。わからないけれど……俺は、俺にはティファには話をすることができる時間があるから。きっと俺より先に…開口一番「ごめん」を呟くだろう優しい人に、例え伝えきれなくても、伝えなければいけない言葉が山のようにあるから。
「……ティファ」
柔らかい頬に手を添えて、腕の中の彼女にただその名前だけを呼びかける。まるで、夢のなかで休憩しているティファを呼び戻すような感覚だった。
「ん……」
一度で届くようにと心を込めて呼んだせいか、ティファは名前を呼びかけた後、しばらくしてすぐ、ゆっくりゆっくりその瞳を夜の闇の中に戻した。その目が俺を捉えるまで、俺はただそれを見つめていた。
「………」
「…ティファ」
もう一度名前を呼ぶ。今度はその目を見つめて。
「………クラウド…」
ティファはぼんやりしながら自然に名前を呼び返してくれた。少し微笑めばふわりと微笑み返す。…だけどすぐに、今の状況を思い出したのか困ったような表情になった。
「あ…、……」
「……」
「…クラウド……ごめん、私……」
「いいんだ。…何も気にするな」
「でも…」
見る見るうちに泣きそうな表情に戻っていくティファに少しでも安心して欲しくて、できるだけ優しく額にキスを落とす。
「クラウド…」
「うん。ティファ」
「………ごめんね…。………あ、…仕事…」
「大丈夫だ。まだ時間がある」
「でも…、もしかしてずっとここにいてくれた…? ……寝れてないよね、ごめんね」
「……ティファ」
「あのまま寝ちゃって……ごめん、私、」
「ティファ」
「…、」
「…謝らなくていい」
ティファの口から転がり落ちる「ごめん」という言葉を封じる。ティファはさらに泣きそうな表情になって、涙を流すのを我慢しようと唇をかみしめる。
そうやって涙を流すことさえも我慢してほしくなくて、ティファの緊張をほぐすために今度は唇にキスをした。
できるだけ優しくゆっくりと、啄むようなそれを贈る。最初は少し固まっていたティファも、しばらくすると体の強張りを解き、辿々しくキスに応えてくれるようになった。
「……」
「……、」
そっと唇を離す。改めて見つめたティファはただ、その瞳から大きな涙粒をひとつずつ流していた。それは悲しみだけではなく、複雑な感情のまざった涙だった。
流れ落ちていくティファの涙を唇で掬う。そしていつもと違う赤色の混じったその目を見つめたあと、包み込むようにその体を抱きしめた。応えてくれたティファの細い腕が、俺の背中にゆっくりまわる。ティファは簡単に折れてしまいそうなほど不安定な力で、俺を抱きしめ返した。
「……、クラウド」
「…うん」
「……。…私……」
「ん……ティファ」
「……」
「……疲れてたんだな」
「…………、…うん」
「…ごめんな」
「……なんで…?」
「…最近、ちゃんと話も聞けてなかった」
「……。…ううん、いいの」
「よくない」
「……」
「…ティファ。……もっと言っていいんだ。愚痴も文句も、我がままも」
「…………」
ティファの、俺を抱き寄せる腕の力が少し強くなる。そんな彼女の背中をさすってやると、ティファは何も言わずに大きく息をはいた。
「……。我がまま……」
「うん」
「…………クラウド……あのね」
「?」
「……。……私ね……」
「うん」
「……………」
「…言っていいよ」
「…。………………恥ずかしいんだけど……ちょっと、寂しくて」
「……、ティファ」
「……クラウドと一緒に過ごせないのが……寂しくて」
思いがけない言葉に思わず体を離して、ティファの顔を見る。ティファは困ったような恥ずかしそうな顔をして、目を彷徨わせていた。
「ね……。…言っても……クラウド困るでしょ」
(……)
一体、何に困ればいいのか。思わず緊張が解けて笑みが溢れる。嬉しそうにする俺を見てティファが一層顔を赤らめた。
「…困るもんか」
「……、」
「…ありがとう。……ごめん。もう少ししたら、仕事落ち着かせるから」
「……。…うん」
「それと…休みも合わせる」
「ん…。………、クラウド」
「?」
「…大丈夫? ……無理、してない?」
「…してない。むしろ、もっと無理させていい」
「……」
「…ティファ。俺は、嬉しいんだ。ティファがしてほしいことをするのが、一番」
「……クラウド」
心の底から思っていることを伝えると、ティファがようやく頬を緩める。それが嬉しくて俺も一層自分の頬が緩むのを感じた。それから、今度はもっと笑って欲しくてキスをする。言ったこと、思っていること、全部本当だと伝えるように。ティファに安心してもらうために。
(…ティファ)
何かを伝えることも、気持ちを全て汲み取ることも、簡単じゃないけれど。まだできないことの方が多くて、頼りないかもしれないけれど。
それでも俺は、ティファが不安の中に落ちる度、助けに行く。暗い気持ちに包まれる度、明るいところに連れ戻す。うまくいかなくても、上手でなくても。
ティファが俺にずっと、そうしてくれたように。今もずっと、そうやって守ってくれるように。
もう逃げたくはないから。もう諦めたくないから。だから…だから。
「……」
ベッドに横たわらせたティファの隣に腰掛け、ただ見守る。ティファはまだ眠らなければいけない。明日も一日は長いし、朝まであと数時間は残っている。
ティファは、再びうとうとし始めるまでずっと俺の手を握っていた。ここにいることを…許してくれていた。受け入れてくれていた。
「…クラウド」
もう、すぐにでも眠りに落ちそうな声が俺の名前を呼ぶ。
首を傾げて応じると、彼女はただ、ただ優しい声で、優しい言葉を俺に渡した。
「……クラウドも…」
「…?」
「…クラウドも、疲れたって、言っていいからね」
「……、」
「…疲れても、いいからね……」
(……ティファ)
返す言葉も返せる言葉も思い浮かばずに、俺はその小さな手を強く握りかえす。鼻の奥が何故か、じんとするのを感じた。
ティファはそれだけ言うとほっとしたのか、ゆったり瞳を目蓋の中に仕舞い込む。程なくして穏やかに寝息を立て始めた。
(……)
世界で一番優しい人に、ただ静かに、おやすみといってきますのキスをする。伝え切ることのない言葉や想いを夢の中の彼女に届ける。
「……」
あどけない寝顔を見つめながら……俺はただ、この人を、守りたいと思った。この人の心を、この人の優しさを、この先この人を包む一秒でも長い幸せを。
俺はティファを愛していた。
こんなにも強く、誰かの幸せを願うことができる力を……それ以外、俺は、俺の中に見つけられなかった。
愛
fin,