この人の口からその名を聞くのは、随分久しぶりな気がした。
まだ薄暗い朝、微睡の中にいた私の意識を隣で眠る人の優しい声が呼び覚ます。はっきりと聞こえた名前。思わず気だるい体を腕で支えて、私に背中を向け眠っている彼の顔を覗き込む。
寝言を呟いたクラウドは、とても穏やかな表情で眠っていた。
「……」
夢を、見ているんだろうか。それもきっと優しい夢。
眠っているけれど、少しだけ微笑んでいるのがわかるから。
夢の中にいるクラウドを起こしてしまわないように気をつかいながら、ゆっくりとそのまま上体だけ起こす。たくさんの切なさが、溶け出すように心を包み込んでいくのを感じながら、やわらかい髪をできるだけ丁寧に撫でた。
「……」
朝日の差し込む少し前。静かな部屋の中、クラウドの夢の中で笑っているだろうその人のことを考える。
そういえば彼女も、彼と同じで朝が苦手だった。
宿屋で部屋が一緒になったとき、彼女はよく私に、まるで戦いに行くときのような顔つきで「起こしてね」とお願いした。それが可愛くてつい笑ってしまうと「これまでお母さんに起こしてもらってたから」と恥ずかしそうに呟いていたことを、よく覚えている。
(……)
ゆっくりと部屋の中にまで差し込んでくる朝日。部屋の床、目にした色のない光は、触れられるはずもないのに何故か柔らかそうに感じた。
無意識に撫で続けていた彼の髪から手を離す。それから身をかがめて、クラウドの頭に優しく自分のおでこを合わせる。どうかどうか、私も混ぜて。私もあなたたちに会いたいの。そんなわがままを心の中で呟く。
空気を吸って、息をはく。
隣のクラウドも、同じように呼吸する。
「……ん、…」
かすかに聞こえた彼の声に、頭を持ち上げた。
起こしてしまっただろうかと心配していると、クラウドは少し顔をしかめたあとすぐ微笑み、ため息をついた。よかった。まだ夢の中で笑っているみたい。
混ぜて欲しいなんておこがましかったなと、一人反省する。クラウドだけが持つ優しい記憶に、私は触れない方がいい。もう私しか覚えていない彼女の記憶があるのと同じで、クラウドにだってきっとそれはある。誰にだって、大切に大切に、心の中にしまっておくべき思い出は……ある。
「……」
意味もなく、部屋の中を見渡す。朝日は気づかないうちに部屋中に広がっていて、もう夜明けとも呼べない明るさが私たちを包み込んでいる。
今日も、朝は来た。私のところに。クラウドのところに。
「……………ティファ……?」
クラウドに名前を呼ばれたのは、そうやって遠くのほうに意識を飛ばしているときだった。声のした方を、彼を見下ろす。クラウドは眠そうに目を半分だけ開けて、たしかに私を見上げていた。
返事をする代わりに微笑むと、クラウドも安心したように微笑み返す。
「……おはよう、クラウド」
「…おはよ……ティファ」
無意識にその頬を撫でてあげると、クラウドも重そうな腕を持ち上げて、私の頬に触れようとした。
クラウドが私に触れられるように身をかがめる。大きくてあたたかい手が私の頬に触れ、包み込む。目を合わせた彼は、しばらくぼうとしていたけれど、それが済んだのか、また柔らかく微笑みかけた。
「……ティファ」
「…ん?」
「いや…。………夢を見てた、気がする」
「…夢?」
「うん……」
知ってるよ。心の中でクラウドに話しかける。
「……優しい夢?」
「……ああ…。……優しい夢…」
穏やかに呟いて、クラウドは目を伏せる。夢のことを思い出したのか、夢の中のことを考えているのか。私たちの間に流れる空気は優しい。クラウドが夢のなかからそれを持ち帰ってきたかのように。
そのまま何か考えごとをしていた彼は、しばらくしてから再び私に目線を戻した。
「……ティファは?」
「…え?」
「…どうかしたか? ……起きたら、遠くを見てた」
「…そうだったかな」
「……うん」
「…なんでもないよ。………ちょっと早く起きちゃったから、ぼーっとしてた」
そう言いながらクラウドの髪をもう一度撫でる。
心地良さそうに彼は目を細める。私たちは見つめ合う。何かを伝えたいのか受け取りたいのかなんて、決めたりせずに……相手を見る。
どれぐらいの時間が経ったんだろう。クラウドは満足したのか、私の手を取り、腹筋を使ってようやくベッドから起き上がった。それでも眠そうな顔に思わず笑みをこぼすと、彼も釣られて笑う。
「……。…起きるか…」
「うん。起きよう」
「……今日はティファ、休みか」
「そう。……クラウドは帰り遅い?」
「ん……そうだな。…ごめん、休み合わせられなくて」
「いいのいいの、気にしないで」
「…すまない。……あ…、それと来週の定休日、俺も休みは休みなんだが…」
「知ってる。……デンゼルとデート、でしょ」
「…聞いたのか」
「ふふ…。うん。昨日、私に申し訳なさそうな顔しながら、デンゼルが言いにきてくれたの」
「…なんて?」
「ごめんティファ、来週はおれがクラウドを予約しちゃったんだ…って」
「ふ……まあ、確かに、そうだな」
「いいなあって返したら、嬉しそうだったよ」
「……そうか…」
昨日のデンゼルと同じく嬉しそうな顔をするクラウド。二人の関係は見ていてとても愛おしい。父親と子どものような、歳の離れた兄弟のような。
そうやって、来週の二人のデートのことを想像して一緒に微笑んでいると……ふと、部屋の外から聞こえてくる子どもたちの声。珍しい。今日は二人揃って起きてこれたみたい。
「クラウドー」
廊下から響いてくる名前。階下、おそらく彼の部屋の前で、マリンが部屋の主を呼ぶ。それから続く「あれ、いない」。
そのすぐ後に、デンゼルが「ティファの部屋じゃない?」と、マリンに答えを教えたところまで聞こえた。
「……」
「……」
顔を見合わせる私たち。お互いが、中途半端にしか服を着ていないことを確認。
「…まずい」
「大変」
二人が階段をのぼってくる音がしたのと同時に、私たちは慌てて服を着る。それがなんだかおかしくってついつい声に出して笑っていると、クラウドも楽しげに、余裕そうだなと笑った。
そうして二人、名残惜しさを感じる間もなくベッドから抜け出した。そのすぐあとに開かれる部屋の扉。元気に飛び込んでくる子どもたち二人を、私たちは笑って受け入れる。おはようという大きな声に返事をする。
一気に賑やかになる部屋の中。ふと、彼女の残り香を感じられるような気がして、ひとり窓の方を振り返った。
カーテンの向こうは空色だった。そこは、雲ひとつなく澄み切っていた。
あの子の夢
fin,